FC2ブログ

Wolfenstein 新シリーズの設定考 - 袋小路に入った世界

Wolfenstein 新シリーズの設定考 - 物語の中の歴史における善悪とは何か/袋小路に入った世界



 Wolfensteinというゲームをご存知だろうか。かつて、FPSというゲームジャンルが誕生して間もない頃にDOOMやQuakeと並んでid Softwearにより制作された人気作品であり、それら作品と同じく何度となく続編やリメイクが制作されている。そして上記の2作と同じく、この作品もベセスダ・ソフトワークス(開発はマシンゲームズ)によって大胆なアレンジと手厚いリスペクトのもと現代風のFPSとして世に送り出された。今回はこのリメイク(?)作に焦点をあてたい。具体的に言うと「The New Order」以降の作品の話である。


・ナチの城に忍び込む話から、壮大な架空史の世界へ
61097.jpg

 オリジナルのWolfensteinは第二次大戦中にナチス・ドイツの要塞に潜入してドイツ兵たちと戦う筋書きだったが、New Order以降の作品はより踏み込んだ、濃厚な展開になっている。新シリーズ第一作目であるNew Orderは1946年から始まる。史実において第二次大戦は1945年には終結しているが、この世界では46年当時に至るまで終戦しておらず、それどころか中盤に優勢を取っていた連合軍がナチス・ドイツの凄まじい巻き返しによって劣勢に立たされているというのが本作のプロローグだ。
 主人公ウィリアム・ジョセフ・ブラスコヴィッチ大尉はOSS(第二次世界大戦に投入された実在の諜報組織。後のCIAだが戦時中は国防総省の内局)の工作員としてアメリカの対ナチ戦争を戦い(Old BloodからNew Order冒頭)、のちにレジスタンスとして戦後のナチスドイツと戦うことになる。ベセスダ配給の新シリーズを時系列準に並べ替えると「Old Blood(46年)」「New Order(46年、60年)」「New Colossus(61年)」となる。以下で各作品をざっくり紹介する。


・Old Blood
 1946年、ノルマンディー上陸作戦の失敗に続く全戦域での攻勢失敗に伴い連合国は戦争の出口を見失っていた。敗因はヴィルヘルム・シュトラッセ上級親衛隊大将(通称デス・ヘッド)が開発し戦線に投入した数々の新兵器で、連合国は彼と彼の研究を探ろうと諜報員を大勢送り込んでいた。そんなとき、デスヘッドの研究拠点だったウルフェンシュタイン城で、彼の右腕と目されるヘルガ・フォン・シャーブス博士が重要な発見をしたという知らせがもたらされる。OSSはただちに工作員ルディ・イェーガーとB.J.ブラスコヴィッチを送り込みヘルガの文書を奪取しようとするが、トラブルによりルディ・イェーガーはナチスの捕虜になってしまう。自身も捕縛されるも辛うじて脱出したブラスコヴィッチは、10世紀の古城や中世からあるドイツの都市を舞台に一人戦い、ヘルガが探し求めていたオットー王の秘密兵器の正体を目にするのだった。
 本作は前作New Orderの独立DLC的な性質が強く、システム完全引き継ぎで本筋と関係ない過去の話を扱っている点を考えてもせいぜい外伝といったところだろう(Fallout3に対するFallout NewVegasだと思えば分かりやすい)出てくる敵も宿敵デスヘッドではなく彼の部下の一人だったり、ナチス兵と戦う話かと思えばオットー王の遺物だのゾンビ軍団だのが登場することで、本編作品とは一味違う雰囲気を放っている。オカルト狂いのナチ将校と激ヤバ考古学アーティファクトの相性がすばらしいことはインディージョーンズシリーズなどで明らかである。これは筆者の個人的意見だがウルフェンシュタインシリーズ元来の設定を考えれば、大戦と同時期が舞台で中世さながらのドイツの古城や街や墳墓を舞台にレトロな舞台道具の中で戦う本作こそ最もウルフェンシュタインらしいといえるのではないか(歴代シリーズでのファンでもないのに偉そうなこと言えるのか)。加えて言えばゲームバランスの調整もOld Bloodが一番行き届いていた気がする。筆者の一番のお気に入り。

・New Order
 Old Bloodのエンディング直後、OSSおよび連合軍は残存兵力のすべてを投入した大規模な侵攻作戦を発動する。目標は北ドイツのバルト海沿岸にある古城を改造したデスヘッド大将の新兵器開発施設で、空挺部隊や爆撃機、戦闘攻撃機などが多数投入された大規模なものであったが、ドイツ軍の航空阻止攻撃や無人兵器によりほとんどが目標に達する前に撃破されてしまう。それでも残った僅かな兵力は古城に潜入するが、そこでデスヘッド大将のスーパーソルジャーに襲われ、数名を残して全滅する。ブラスコヴィッチは脱出に成功するも、その際に頭部に傷をうけたことで昏睡状態に陥ってしまう。海を漂流していたところを拾われたブラスコヴィッチは、ポーランドの療養施設に収容される。昏睡している間に時代は流れ、15年の月日が流れる。1960年、ナチスは一部を除いた全世界で勝利をおさめ、事実上の覇者として世界中で苛烈な統治を敷いていた。自身が収容されている療養施設が親衛隊に襲われたことで意識を回復したブラスコヴィッチは、やがて自身が所属していたOSSもアメリカ軍も今はなく、祖国アメリカはナチスの原爆投下により47年に降伏していたことを知る。それでも闘志を失わなかったブラスコヴィッチは世界首都ベルリンに赴き、そこでレジスタンス「クライソーサークル」に合流する。ハンガリー、ロンドン、ジブラルタル、月面など世界中を転戦しながらブラスコヴィッチはナチスの事実上の指導者となっていたデスヘッドを倒すことに成功するも、自身も致命傷を負う。
 ベセスダ・ソフトワークスとマシンゲームズによる歴史的名作のリメイクの一作であり、その爽快なプレイ体験と作り込まれたストーリーで多くのファンを魅了したFPSの名作である。5,60年台のアメリカで流行った「もしも枢軸国が勝利していたら」系歴史IF小説の設定を取り入れ、細部まで徹底的に作り込まれたナチス・ドイツ流のスタイリッシュな「レトロフューチャー」世界観には筆者も魅了された。ストーリーは上記の歴史IF、例えば高い城の男やファザーランドにある「戦勝で世界秩序側にまわったナチ」の世界規模でのインフラ開発や民族弾圧などが前提にあり、そういったソフト部分を補強するように衣服から都市までのありとあらゆる舞台道具が「ナチス流」に誂えられて形成された空間はまさにアーリア人種的熱狂に満ちあふれていた。
 このナチス流というのが本作が飛んだミソだと筆者は思う。ナチと聞いてまず何を思い浮かべるかと問われれば10人中9人は絶対悪だと答えるだろうが、次に同じ質問をもう一度したら、おそらく半数の人は「ファッショナブルな集団だ」と答えるだろう。ナチスドイツ時代の党組織や国防軍が制服や宣伝の意匠に非常に気を使っていたことは有名だが、結果としてその残虐性で人類史に名を残した集団は、その見た目の良さでも人類史に名を残したのだ。早い話がナチスの格好をして鉤十字旗を振っている奴が画面に入ってると、それだけでシーンがめちゃくちゃ引き立つのである。上でインディージョーンズに触れたが、同作のプロデューサーであるルーカス氏もこの辺を意図してナチを頻繁に引っ張り出してきていたのだと思う。後継組織が無いから悪役として殴りやすいし、悪役だけど実にカッコいいから映画に出すには理想的なのだ。インディージョーンズは1938年のエジプトを舞台にナチスと戦う話だったが、New Orderは1960年を舞台に世界制覇を成し遂げたナチスと戦う話である。右を向いても左を向いてもナチがいる。ナチが濃い!例えば本作中盤で登場する世界首都ゲルマニア(ヒトラー総統とシュペーア建設軍需大臣が構想したベルリンの都市計画案のことで、史実ではほとんど完成しなかったが本作では完成している)では巨大なコンクリート建造物が見渡す限り広がっており、その灰色の壁面には赤と黒のまばゆい鉤十字旗が掲げられている。空にはツェペリン飛行船が浮かんでプロパガンダを流しており、文字通りどこを向いてもナチス的なものが目に入る。カッコいい!とまぁ、ナチスドイツが歴史的に背負わされてきた2つの性質「絶対悪」と「クール」の2つを余すところなく取り込んでいるのが本作の骨子なのだと筆者は感じた。これは悪役としてナチスが登場する作品ではしばしば行われることだが、これが後述の負の側面に繋がっていく。


・New Colossus
 宿敵デスヘッドを命がけで倒したブラスコヴィッチとレジスタンスであるクライソーサークルだったが、安息は訪れなかった。デスヘッド亡き後にナチスドイツと親衛隊の主導権を握ったフラウ・エンゲル女史は、かつての因縁を恨みにブラスコヴィッチを執拗に追いかけ回す。サークルの指導者を失い、ブラスコヴィッチもデスヘッドと相討ちした際の傷がもとで余命いくばくとなっていた中、サークルは新たな活路を求めてアメリカのレジスタンスとの合流を試みる。アメリカは47年のNYへの原爆投下によってナチスドイツに対して無条件降伏し、ナチスの統治下にあった。通りをドイツ兵やKKKの青年が闊歩するアメリカでは有色人種とユダヤ人に対する徹底的な囲い込みが行われ、彼らはルイジアナ州に造られたゲットーに隔離されていた。一度はフラウエンゲルに囚われ処刑されかけるブラスコヴィッチだったが、命からがら危機を脱しついにはアメリカ全土のレジスタンス勢力をまとめあげ、フラウエンゲルを逆に殺害することに成功するのだった。
 このNew Colossusは現在リリースされているウルフェンシュタインシリーズの最新作である。筆者の個人的な意見を述べさせてもらうなら、この三作目にはやや改善の余地があったかもしれない。例えばリリース後に開発元自身が認めている武器バランスやプレイアビリティの問題だろう(この辺の問題は遊んでいても感じたが、面白さを損なう程ではなかったようにも思う)。だがそれよりも気になったのは、ソフト面、ストーリーである。以下、New Orderからのストーリー展開を要点に絞って見ていこう。


・そもそもなぜアメリカに行ったのか
 New Colossusでは舞台がアメリカに移ったが、これはなぜか。New Orderで苦戦の末にヨーロッパを開放していたというなら次は北米だというのは自然な流れだろう。だがNew Orderのエンディング時点で彼らがやったことといえば以下のことだけだ。

 ・ロンドン中心街を破壊
 ・大型潜水艦を盗む
 ・デスヘッドを殺害
 ・デスヘッドの城を核攻撃

 そう、ヨーロッパは別に開放していないのである。そもそも開幕が敵の本拠地ベルリンから始まっているのに、いきなり開放というのは無理がある。また、New Orderのイメージなどで背景に写っていたロンドン、もといイギリスはどうなったかというと、やはり中心街のナチ施設を破壊しただけで別に開放していない。彼らは戦っては逃げを繰り返しているだけで、戦略的には全く前進できていないのだ。そんな彼らがなぜアメリカに行ったかと言えば、それは助けを求めるためだ。戦略原潜まで持ってるヨーロッパ最大のレジスタンス集団が、アメリカの廃墟やゲットーの中で地下活動をしている小規模レジスタンスに助けを求めに接触する?通らない話である。いかにも「This time, it's AMERICA!」というお題目優先で話が決まったかのような印象を与えている(実際はストーリーのみ先行してある程度決まっているらしいのでそこまで場当たり的ではないらしいが)。確かにアメリカが舞台のウルフェンシュタインは見たかった。黄金時代アメリカの大通りに鉤十字旗が掲げられ、フリッツヘルメットを被ったドイツ兵とKKKの白装束が握手してるシーンは見たかったし、あのチャプターは本当に満足している。だが他の部分が歪んでしまっていては元も子もない。またNew Colossus本編にしても彼らは世界中に自分たちの存在を発信こそしたが、どこも開放していない。
 そしてここからが本題だが、New Colossusではアメリカを舞台にしたことで前作が持っていた「悪いナチをぶっ殺そうぜ!」という単純さと爽快感が失われてしまっている。次項で説明しよう。


・征服者VS抵抗勢力から、国家VS国家の視点へ
 レジスタンスやパルチザンというのは、基本的には政府が関与しない活動である。ヴィシーフランスでの対独レジスタンス、ソ連やイタリアのパルチザン、あるいは南ベトナム解放民族戦線などを含めてみてもいいかもしれないが、征服者と敵対する第三国の支援こそ受けてはいるが、いずれも当事国の政策として行われているものではない。したがってレジスタンスの行動には国家的人格が伴わず、あらゆる戦術・戦略行動が受動的なものとみなされる。例えばヴィシー政権下のフランスで連合国の支援をうけて活動していたレジスタンスはフランス解放後はド・ゴール将軍率いる共和国臨時政府と合流して正式にフランス政府(共和国臨時政府・第四共和政)となった。正式にフランス政府として認められたことで、過去のフランス政府や帝政、あるいは王政時代にフランスが行ってきたあらゆる罪過も同時に継承したことになる。レジスタンスだった頃は単に征服者ドイツに抵抗して武器をとっていた無辜の市民の集いだったが、政府に合流して正式に政府機関に含まれたことで彼らは「フランス」という国家の人格に含まれたのだ。
 さて、ここらで架空の1961年に戻ろう。ここで上記のフランスの部分をアメリカに置き換えて考えてみてほしい。クライソーサークルは、マンハッタンの廃墟やルイジアナのゲットーで武器を持っていたレジスタンスは。彼らはもちろん無辜の市民の集まりであるが、New Colossus本編で彼らがアメリカを取り戻すために頑張れば頑張るほど、アメリカに対する無常の愛国心を燃やすほどその総体はレジスタンスの集合から「アメリカ政府」に漸近してしまう。特にアメリカ政府が事実上存在しないゲーム内世界では、アメリカの独立回復のために戦っている彼らこそ(上記のド・ゴール将軍の自由フランスのような)アメリカ臨時政府に近い存在になってしまう。登場人物たちがいかに無頓着であったとしても、彼らの運動が単に一人でも多くのナチスを地獄に送るためだけのものであったとしても、アメリカを取り戻す行動はアメリカの独立回復のための運動であり、それを行う主体はアメリカの国体なのである。
 そこで考えなくてはいけないのが、アメリカという国が果たしてナチスを悪として打倒しうるだけの正義を備えた国であったかどうかである。この答えはノーで、この辺りがNew Colossus本編に時折、強烈な歯切れの悪さを与えている。次項では史実の話を交えながらこの点を掘り下げよう。


・実は前作から顔をのぞかせていた歯切れの悪さ
 ちょっと時系列を戻して、前作New Orderの話に戻ろう。本編を普通にプレイしている限りでは見落としてしまいがちだが、実は1960年時点でもナチスの世界制覇はまだ終わっていない。月や金星にまで基地を建設している癖に地球を統一していないというのは驚きだが、クライソーサークル本部の壁新聞を注意深く読んでいると確かにそんなような話が書いてある。そして、アメリカすら屈服させたナチスドイツに頑強な抵抗を示している国とは、なんと南アフリカ連邦である!ナチに最後まで抵抗している唯一の希望がよりにもよって南アフリカかよ!(南アフリカの現代史については各自調べて欲しい)この話はゲーム内テキストの情報というだけでもなく、一応本編とも関連はしている。本編でぶっ壊すことになるジブラルタル海峡海上橋は南アフリカ戦線へ物資を輸送するためという設定があり、そのためにアフリカ戦線仕様の軍服を着た兵士が兵員輸送列車に乗ってたりする。普通に遊んでいる限りではこれも気づかないが、ここまで組み込んである設定なのであるいは後続の作品でしれっと登場するかもしれない。しかし、New Order、New Colossusと何度となく窮地に陥っているクライソーサークルの面々が南アフリカ連邦政府に助けを求めたり共同戦線を張ろうと試みた形跡はない。まぁそうだろうな。
 翻ってアメリカだが、戦前のアメリカでの黒人への隔離政策は南アフリカに準じるレベルだったことは言うまでもない。KKKの存在や、史実におけるアメリカ・ナチ党の躍進など、戦前のアメリカが道徳価値観で見て”どっち側”の存在だったかについては、熟考が必要だろう。
 そういったアメリカ元来の負の側面、あるいはナチと同じ血が流れている部分について本作では積極的に掘り下げ、物語に落とし込む努力が見られる。この点は偉いと思った(もっとも、逆に遠ざけようものならこのご時世大変なことになるのは明白だが)。例えばクライソーサークルがマンハッタンのレジスタンスから迎え入れる新しいリーダーは黒人女性で、大戦前からアメリカ国内で公民権運動を展開していた活動家である。
 また、ゲーム内でのアメリカはマンハッタンへの核攻撃によって無条件降伏したことになっている。61年現在、アメリカ市民は堕落した旧合衆国政府から「核攻撃によって」アメリカ市民が開放されたことを統治者のドイツ人将校たちに感謝し、ドイツは「核攻撃によって」本来行われるはずだった地上戦が行われず、米独双方の人員が大勢助かったことを成果として誇っている。そう、これは史実に置いてアメリカが日本に対して行ったことと、行ったことへの姿勢をそっくり立場を入れ替えたものだ。歴史IFにおいてこういった展開をつくり、強調点を設定することの是非は分からないが、特有のメッセージ性があるのは確かだろう(上記の公民権運動に対する姿勢もそうだが、逆にこれ以外の姿勢が現代で許されるかどうかのほうが怪しいと自分は思う。政治的正しさというやつだろう)。だが、それによって前作New Orderが持っていた単純明快なテンポ感は損なわれていると思われた。これはアメリカを題材に選んだ時点で避けては通れない道だったはずだし、それが分かっていてなおアメリカが舞台の続編を作ったということは、このようなダークな展開を望んでいたということなのか。


・はじめから選択肢などない
 それに関しても筆者は怪しいと思っている。例えば続編がアメリカではなくロシアで、取り戻すべき土地がロシアだったとしよう。当時の政府はソ連だが、17年の発足から46年までに絞ってもソ連政府が犯した国内/国外への非人道的な罪は計り知れない。見方を変えて日本はどうか(この世界の日本は同盟していたはずがいつの間にかドイツに征服されている)。日本が統治していた満州朝鮮台湾は?国土を回復させたとして華北の制圧地域の帰属はどうなる?中国なら中華民国か中華人民共和国か?そう、敗戦国も戦勝国も罪過を持たない国などないし、また戦後の世界秩序であるところの現在から見て、回復させるべき戦前などもやはり存在しないのだ。
 クライソーサークルとレジスタンスの仲間たち、あるいはブラスコヴィッチは世界をナチから開放できなかったのではなく、開放するべき世界像をもっていないのだ。彼らは勝利を信じて戦い続けるが、最終勝利などは存在せず、また取り戻すべき世界も存在しない、いわば袋小路なのだ。


・考えうる理想的なオチとは
 筆者はそもそも、このシリーズも上で述べた小説作品のような時空改変の要素が絡んだ作品ではないかと考えていた。技術的特異点であるデスヘッド上級大将その人が例えば未来人で、歴史に介入してナチスに勝利をもたらしたとか、そんな感じだ。だがデスヘッドは死んでしまったし、死んだのに話は勝手に進んでいる。パラレル的な展開の影もなく、レジスタンスはあてもない戦いを続けている。仮に、New Colossusのような話の進め方で3,4と続編を作っていったとして、いつかかならず袋小路が閉じるだろう。私のような妄想たくましいファンは2作目で既に出口の見えなさについて考えている(これが被害妄想であればそれは素晴らしい)くらいで、同じことは続かないはずだ。それはもちろん制作側も理解しているはずで、続編では我々の想像を上回る大きな何かを見せてくれるかもしれない。筆者はネタ潰しはしたくないので詳しく考えたくないが、ストーリーを楽しめることこそシングルゲームの要旨だと、いちゲーマーとして信じていることをここに告白して終わる。
スポンサーサイト

編集後記:太線、黒ベタ、ハッチング。の世界



 準定例で更新の後に毎回書いてる編集後記です。
 今回から始めた新しいことってあまりないのでそんなに書くことないのと、今めちゃくちゃ眠いのに明日仕事なんで簡潔にやっていきましょう。

 内容についてですが、起稿した時モチベーションが低かったせいでかなりページ数が少なくなっていて、次で1話終わらせようとすると20弱行くんじゃないかと今若干頭を抱えています。それは良いにしても、やはり一回たったの7pというのは寂しいですから、掲載サイトの制限(1更新5p以上)とは別に個人的に一回10、ないし10でキリが悪いなら13くらいで制限を儲けようかと。あくまで内容ありきの話ですが。

 技法の話です。新しいことは何もしてないと書きましたが、よく考えたら色々やってました。具体的に言うとタイトルにある、ハッチング(網掛け)の利用に関することです。前に編集後記で黒の利点について触れたような記憶がありますが、これも同義で中間色の利用比率が減ります。3話の7pを執筆する過程で色々なペン画イラストを描いて検証したりしていたので、実際に使ってるのは最後の2pくらいですが、それでも実際見てもらえれば言ってることの意味はわかるかと思われます。ハッチングの技法は黒髪表現、陰影、色など主に人物描写に用いました。現状の自分の応用可能な範囲では、背景に同じような処理をするとキャラクターの輪郭がぼけてコマがうるさい印象になるという結果だったからです。これについては今後結論を出すとして、私個人の判断としてキャラクター描画の方法に関して一応の完成を見たという判断を下せた事は、停滞気味だった描画技法学習の過程で大きな意味を持つのかなと描いてて思ったりしました。もう「何をどう描くか」に迷いながら原稿をしなくていいと思うと、なんだかつかえが取れた気分になります。頭空っぽにしてもできるくらいに作業をルーチン化できるほど理想的なことはありません。ちょっと触れた、原稿中に描いた関係ないイラストはピクシブしてあったと思うので気になった人は参照してください。

 課題の話です。7pしかやってないのに課題なんか出ないだろって気もしますが、今回一つ問題が解決しているので、従前からある課題のうち残ったものを挙げます。

・背景の明暗表現
・黒ベタの使用

 明暗表現についてですが、自分でも自分の漫画は白いなと思うくらいで、色が足りてないのが分かります。ところが、暗い場所を表現する際にカラーイラストの要領で中間色をドプッと使うと極めて印象がボケた画になってしまいました。従って、そういう場面では黒ベタを大胆に使いカシッとしたキレを演出できるようになりたい。そういう事を今回感じました。まぁ今回に始まった課題じゃないですが。黒ベタが使える利点はそれだけではないです。完成と言ったキャラクター表現も実際だいぶ白いので、ハッチングとは別に黒ベタをたくさん使えることが望まれます。
 具体的な達成手段としては、従来の執筆過程が白キャンバスに黒ペンでゴリゴリ描いてく過程だったのに対して、部分的に一度黒く塗りつぶした箇所に白ペンで(実際は透過モード)削りを入れていく方法が見込まれます。次はそれ試します。



 以上。

メディアの壁 漫画と小説

 久しぶりの更新になりました。色々投稿したいテキストはあったのですが、書いてるうちに文書量が膨大になりすぎて途中でやめたりしていました。

 ときに、ここ数週間で書き溜めてた小説を新都社に投稿しました(勇者の居ない8月)。同サイトに小説を投稿するのは三度目ですが、過去二回は途中でぶん投げています。確か魔法の国で戦争を起こす話と、架空史世界でウナギの怪物を追って東南アジアまで行く話でした。これら2作と、数年来極めて低調な活動に甘んじている漫画について個人的に今回共通点を見出すに至ったので、最近漫画をぱったり描いてない理由とその辺の話を絡めて記録的に書いておきたいと思います。(それにしても小説ってコメントつかないっすよね。初めてじゃないけど)

 その前にまず今作の立ち位置みたいなものを書いておきましょう。書かないと忘れそうだから。本作はもともと漫画用に作ったプロットで、某ラノベ原作アニメを観てドハマリした後に「これパクろう(爆)!」と思ってネタ帳に書き上げたものでした。結果として似ても似つかない話になったのでそのへんはまぁどうでもいいんですが、小説で描き始めたからといって漫画で作品にする事を諦めた訳ではないので、まぁいつかね機会があれば世に出したいよねみたいなことは今も思ってます。ただ、私の原稿生産力は1の描ける時に対して9のダメな時があるようなレベルで、実際2011年に始めた中編漫画がまだ終わってないという始末なので、いつかどこかでみたいな事言ってたら死ぬまで無理でしょってことは自分で理解しています。
 ところで小説一般について私は以前、このブログでもどっかで書いてたかもしれませんが「長文が読めない」「まして書こうとすると頭が痛くなる」という見解でした。読む方は変わってないですが(投稿しといてこの言い草)、書くほうについては現にそこそこのペースで書いて投稿してるくらいで、現状改善しています。これには明確な事情が存在します。
 私は元々、中学高校の頃は結構読書量が多いほうで、小説なんか齧るように読んでいまして、書く方にもモチベーションがありました。ただまぁ漫画のほうが好きだったのでそっちに行った訳ですが、小説についても理論的な面で一家言ある小生意気なガキだったわけです。漫画についても力の入り方は異なりますが、現状同じです。こだわりがあります。そして、そのこだわりが曲者だったのです。
 高目低手という言葉があります。その人の自己認識や目標に実力が果てしなく追いついていない滑稽な状態を指すことばで、物を作るモチベーションはあるのに手が動かない素人に対してよく引用されます。つまり、私もこれに該当する訳です。

・詩的な雰囲気を排除する
 技術的な側面に注視してみましょう。小説を書く時、私は好んで一人称型の語りを用いますが(それしかできないとも)、その中で本文描写は2つのチャンネルの出来事を並行して交互に書く形態になります。具体的には主人公に対して現実で起こった出来事と、主人公が感じたことです。それぞれ200文字くらいずつ交互に重ねていく文体です(こういう書き方に名前があったが思い出せない)が、このうちの後者に情景描写が含まれます。漫画で言うバストアップ漫画(登場人物の顔アップが交互に描かれているだけの漫画を蔑んでこう呼ぶ)のように、小説にも避けるべき進行があると私は無意識で考えていました。あるいはどこかの技術解説で読んで知っていたのかもしれません。一つは会話劇をセリフの羅列だけで進めてしまう形式です。これはSSなどとして定型化されていますが、普通の小説でやると見栄えが悪いです。2つ目が、1つ目ほど見栄えが悪くないにせよ避けるべきとされる、情景描写が圧倒的に不足している文章です。つまり、誰が何して何を言った、それに対して誰がどうしたのはこう思う、みたいな話だけで物語が進行してしまって、それがどこで行われているのか、場所によって登場人物たちは何の影響を受けているのかがすっぽり無い文章です。これは密室劇などでは当然こうなりますが、そうでない場合はダメと、私は習った記憶があります。そしてこの刷り込みが上記の「頭が痛くなる」原因だったのです。情景描写をする上で、頭の中に思い浮かべる必要がある部分はどこでしょう?私はその場にあるもの全部だと思っています。情景の色、光加減、空気、臭い、湿度や足場の触感、あるいは誰かの視線などなど。それら全部を適時に文中に挿入するためには、常にカラーの映像として作中を想像していなくてはいけません。これが漫画なら、だいたい「目で映るもの」だけ考えておけばいいのですが、小説の場合は五感すべてが感じる事について書く余地があるため、必要に応じてそれらを想像することになります。さらにそれらを物語の進行に都度都度絡めていくなど、プロならぬ素人の私には困難でした。でも、それをやめればくだんの素人くさい滑稽な文章になってしまう。そうなるくらいなら描かないほうが良い……。それこそ頭痛の原因だったのでした。
 ところが、本プロットの場合はあくまで漫画に対する予行演習のような性質であり、また小説と漫画の描画範囲の違いを考慮して物語のあらすじ以下の部分で自由に変更を加えることも可とし、その上評価を求めないという大前提を作ってあったため、ハードルは極限まで低くなっていました。さらにプロットがラノベっぽい(これは私の中にある偏見に基づく評価であり、その問題性については批判をうける用意がある)ことも、技術的ハードルを下げました。結果、情景描写を最低限に絞って物語の進行だけを点々と伝える紙芝居様の小説で可であると、事前に定まりました。
 一度そう決めてしまうと人とは不思議なもので、筆の乗ること乗ること。序盤は時間がかかったものの、今は二晩あれば1話書けるくらいには筆がノリました。ここに来て私は「高目低手」、あるいは「完璧の病」の恐ろしさを真に理解したのです。

・「よい結果を求めない」「作品に対し適当に接する」
 では漫画はどうか、漫画で同じことが実行可能か?と問われると、現状ではNoでしょう。小説ですら、あれだけお膳立てが必要だったのです。私はもう8年素人漫画描きをやっていて、個々の点では一定の自己評価を達成しています。それをいきなり鶴の一声で気持ちを切り替えるというのは難しいでしょう。検証する方法は一つです。私が何の外的兆しもなしにいきなり小説を描き始めたように、原稿に対して自発的に取り組めるような気持ちになるまで待つのです。そのまま漫画卒業になる可能性もありますが、執筆に対して楽しさを感じていない訳ではないので、上記テーマを常に意識していけば近いうち、スイスイスラスラ雑な原稿を量産できると信じています。新都社のローカルスラングでいうところの”クソ漫画”くらいのもので良いんだと、口先だけでなく心から言えるようになったら、その時は更新報告で会いましょう。


 本当は小説と漫画の描画範囲の違いによってどんな内容の改変が予測されるか、すでにやったかみたいな部分に触れたかったのですが、夜更かししたくないのでこれで終わりにします。


 追記:明日バイトの面接です

提案:報われないヒロインのカタルシスとは -名作映画の人間関係に見る一例-


 こんにちは、お久しぶりです。就労してから一時期はまったくアニメを見ない虚無オタクになっていた私ですが、ここ3期ほどはほぼ連続で1作品以上のアニメを見ています。何も見なかった時に比べ、気持ちにハリが出るように感じられてとても気分がいいです。
 そんな流れもありましてつい先日、ダーリン・イン・ザ・フランキスというロボットアニメを6話まで一気に見ました。とても好感のもてる作品だったので、今後も視聴していこうと思います。このアニメ、10代前半の頃にぼくらのとかエウレカとか見てきたわたし世代には殊更刺さる感じのアニメだ、というのとは別方向で界隈を熱くしているようです。

「青い子は不憫」でいい。それでも彼女は生きていて僕たちは生かされている。(サカウヱ)

 あー好き。ほんと好き。と、いち創作趣味者としても思うところありましたので背景を整理などしておくか~など考えていましたところふと、ある映画の主人公の事が頭に浮かびました。その映画は1780年代のウィーンを舞台に、当時ヨーロッパじゅうでその才能を知られていた劇作家・作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと、同じくウィーンの神聖ローマ帝国宮廷で宮廷学長を務める劇作家・作曲家アントニオ・サリエリの確執と描いた映画「アマデウス」です。実はこの映画を見た今年の頭に、感動したので感想書くべさと勇んで草稿を作っておいたものの長くなりすぎて放置していたというのもありまして、今回はその草稿を大部分流用したものとなります。先に申し上げておきますと、主題関係なくほとんど映画の話です。無理にくっつけずに映画感想だけ単体でも良かったんじゃないかとはちらっと思いましたが、とにかく書きます。

***以下、映画本編の感想***


 映画アマデウスを見た。のは1月末なのだが遅ればせながら感想を書く。
アマデウス
 中身は知らなくともこのポスタービジュアルを見たことがある人は多いのではないか。中央にどかんとシルエットで描かれた人物が、白い目だけをぎろっとこちらに向けている。シンプルながら印象的である。私もこの映画を知ったのはこのポスタービジュアルに目を惹かれたからだ。

 さて感想と言ったが、脚本とか時代背景とかを長々書き連ねて表することはしない。この映画は面白かった。五つ星満点が相応しい。問題は何が面白かったかであり、そのうち何をパクって自分の作話に活かせるか、この点に絞って振り返ろうと思った。この映画は完璧であるから、面白さに寄与している点がいくつもある。以下に列挙する。


何が面白かったか:

1.忠実な時代考証・ロケハン
 解説によれば主要な舞台となるウィーン市の町並みやいくつかの歌劇場は現存する当時のものやプラハの町並みを使っているのだそう。加えて当時の風俗文物、風習や娯楽や服飾、あるいは料理や音楽まで、背景に非常に凝っている。18世紀のウィーンにロケに行ったんだろう、そう思えるほど舞台セット感がなかった。これは真似出来ない。

2.精細で巧みなキャラクターの心情推移と帰結
 主人公であり語り部でもあるアントニオ・サリエリ先生の、当人の言葉によって語られる心情と殺人計画の進行、そして顛末。★が5つあったとして、3つ半は間違いなくこの部分によるものだろう。以下ではこれについて突っ込んで考えていく。(いくつもあるとか言って二つしかなかったわごめん)



 その前にサリエリ先生と、彼が気を揉む相手であるモーツァルトの作中でのひととなりについて要点を上げておこう(なお本作は相当部分が創作であり、特に二人の関係については史実とは異なっている)以下ネタバレ。


 ・サリエリ先生
 本名アントニオ・サリエリ。神聖ローマ帝国はウィーンの神聖ローマ帝国宮廷で宮廷楽長を務めたイタリア人音楽家(この時代、イタリアは芸術の先進地域であり欧州のどの国でもオペラや歌劇は基本的にイタリア語で公演されるものだった。然るに音楽界でもイタリア出身者が幅を利かせていた)。彼の幼少時代の経歴には劇中冒頭で若干触れられるが、彼は本編開始時点で神聖ローマ帝国の宮廷楽長(=ヨーロッパ音楽界の頂点)の地位に上り詰めているので作中では重要ではない。相対的に見ると彼は相当に地位が高い人物で、金も名誉も充分に持っているのだが本作は彼の視点によって描かれるため、天才への嫉妬とその才能への尊敬によって板挟みに遭う凡人という立ち位置になっている。

 ・モーツァルト
 本名ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。神聖ローマ帝国ザルツブルク生まれのドイツ人(当時は国家への帰属や愛国主義に基づく国家意識が今ほど明確ではなく、そもそもドイツという統一国家もないのでドイツ系はどこでもドイツ人だった)。歴史に埋もれ忘れ去られたサリエリ先生とは対象的に後世にその名を残した大天才であり、作中では天賦の才によって誰にも達し得ないほどの作曲・作劇能力をもった人物として描かれる。幼いころに父親によって音楽の才能を見出された後すぐに高等な音楽教育を施され、その後は神童としてヨーロッパじゅうの宮廷や都市をめぐって才能を見せて回る旅をしていた。そんな生い立ちのせいか、あるいは神が音楽以外の才能を全く与えなかったのか、後世の評にもあるようにかなり「破天荒」な人物として描かれている。才能はあるが社交性も生活力も金銭感覚も皆無というその姿は、天才とかカリスマという言葉がもつ悪い方の意味もしっかり付与されているキャラクターだといえる。また父のコントロールのもとで長く過ごしてきたことから、父親とはコンプレックスに近い複雑な関係であった。物語の後半では第二の主人公として、家族を持ち経済的に独立し父を喪うという人間的なイベントのなかで徐々に消耗していく天才の姿をみせる。



・最大の努力をしてもなお及ばない自身の無力さをちょうど理解できるだけの才能

 サリエリ先生はヨーロッパ音楽界の頂点に立つに相応しい才能と能力を持ち、それに見合うだけの地位と名声を得ていた有能な人物だ。そのうえ勤勉で、かつ幼少期に立てた誓いに基いていい年して純潔を守るような誠実な人柄である。そんな人が、才能という一点だけに秀でた無礼な若造に、どんなに努力してもかなわない事を悟ってしまうばかりか、その若造の才能に心酔してしまうのだ。
 サリエリ先生の場合は力負けするだけではなく、モーツァルトへの嫉妬から完全に人生の調子を崩してしまっている。既に充分といえるほどの成功を収めているにも関わらず、モーツァルトしか眼中にないサリエリ先生にとっては自分の才能や業績など無価値な凡人のそれでしかないと彼は考えるようになる。その認識が嫉妬に火をつけ、モーツァルトが死ぬように暗に仕向けるという凶行に彼を駆り立てる。才能と地位と名声の全てを手にした宮廷楽長が、直接ではないにせよ怨恨殺人者に成り下がってしまうのだ。この、地位と名誉を兼ね備えた大の大人を一歩も前に勧めないデッドロックに陥れた関係性こそがこの映画の核だと私は感じた。




***草稿ここまで***



 映画の感想としては総評の部分が抜けていますので、ここで本稿の主題に引き継ぎましょう。上記のサリエリ先生は中年男性であり、少女を外的にも内的にも消費するというアニメ的カルチャーからは縁遠い訳ですが、これが例えば美少女だったら如何になるでしょう。


・すべての試み、努力、願いが破綻へと収束することが確約されているポジション

 殺人者うんぬんというのは別にしても、自分が何をしても完全に相手におよばない事が分かりきっているうえ、相手を憎むこともできないという先生の状況を10代の美少女ヒロインに適する形に書き換えてみましょう。アニメで美少女とくればたいていは主人公を取り合う(あるいは単独の)恋愛についての話です。特にティーン・エイジャー向け作品(要するに夜やってるアニメやライトノベル)について顕著ですが、恋愛主題にせよ主題とは別の群像劇要素の中の男女関係に恋愛が付随するにせよ、恋愛要素のない話のほうが少ないのではないかと思われるほど、物語にとって恋愛要素は普遍的なものです。先生の例に倣うなら、このヒロインが抱いた恋は叶いません。場合分けで考えてみましょう。


・初めから決まっていたかのごとく恋の鞘当てで負ける安牌選択肢ヒロイン

 恋愛は相手があるものですから最低二人で行うことになりますが、それ以上の場合もあります。一人の異性をめぐって複数の同性が火花を散らす展開ですね。マルチエンディングが前提のギャルゲーをアニメに仕立てたものや、視聴者層の多様な需要を満たすべく複数のヒロインが用意されているアニメではしばしば、誰か一人を選ぶことで残りのヒロインは余ります。(ただし、あまり安直に奪い合いを描写すると凄惨になってしまうので、ハーレムなどと言って全員とのゆるい関係・八方美人を許容したり、奪い合いをするにしても予選的な出来事を経て1対1に絞り込んでおくなどの対処がなされる場合が多いかと思われます。1対1に絞っておくのは敗者が団結して主人公を数で糾弾する展開を予期させないためです)ところが、これは見る側のちんちんの都合とでも言うべきかと思いますが、余った子にもしばしば笑顔が要求されます。観客が自己投影すべき主人公がフッた子が、結果をよしとせず意気消沈したり恨み節をつぶやいていたりすると、せっかく成就したほうの恋に集中できないし後味が悪いからです。これを正当化すべく、あるいは本稿で提示する効果を意図的に狙ったうえで、ヒロインが不貞腐れることを防ぐ状況を作っておく場合があります。いい例がヒロインの恋のライバルはヒロインの親友でもあり、というやつです。冒頭にリンクを掲載した記事で言われる「青い子」にもこのパターンの子は多いかと思います。
 この「パートナーの獲得(物質的充足)が失敗したうえに精神的にも不自然な振る舞いを強要され充足できない」デッドロックを、ヒロイン(の人格)を内的に消費する行為だと私は考えています。直感的ではない表現になっていますが、例えばアニメキャラを外見的=肉体的に消費するといった場合は性的に見る、あるいは作中で性行為をさせるなどで、そのカウンターから言えばキャラクターの人格に外的な力をかけて、あるいは傷つけることとが内的な消費だといえます。外的な力をかける、というのは例えば苦境に陥るような展開に持っていくというような意味です。これがなぜ消費になるのかについて事項で抜き出して書いていきましょう。


・内心の不道徳が肯定されるのが物語

 物語のカタルシスの原理から言えば、物質的か精神的かに問わず登場人物が制裁をうけるには、制裁に見合うだけの理由が必要だということになります。ラストで主人公に倒されるためには、悪役は序盤に相応の悪行をこなしておかなければなりません。そうでなくては、主人公の下す制裁の手段である暴力や悪意ある行為が正当化されないからです。この理屈に従えば、作中で主人公にフラれるヒロインは何か悪行をしていたことになりますが、例えばヒロインが冒頭で貧しい農民を切り捨てたり小さい子供からお菓子を奪ったりしているようなことがあれば、別のもっと大きい問題になるでしょう。では報われないヒロインの罪はなんでしょう。美しく生まれてしまったことでしょうか?違います。
 視聴者の投影対象である主人公の選択によってフラれたヒロインは明確に展開から制裁を受けている訳ですが、この場合は上記の原理は適用されません。ここで満たされる視聴者の感情は、悪人が廃された開放感ではなく、自分の意思で他者を束縛したという征服感です。他者を自分の意思によって束縛したいという征服欲は現実ではあまり褒められた感情ではないですが、物語は人間の願望と快感によって生まれたものですからこれは尊重されるべき原理です。
 報われないヒロインのカタルシスは、報われないことで満たされる視聴者の征服欲によって保証されているのです(背景にある原理はこれだけではありません)。


・最も惨めなライバルなき敗北

 ここで、補足的になりますが上で触れなかったシチュエーションについても考えましょう。本稿では映画アマデウスのサリエリ先生を起点に報われないヒロインについて考えてきた訳ですが、サリエリ先生に立場を共有するライバルは居ませんでした。というかモーツァルトがライバルだった訳ですが、モーツァルトは恋敵というより片思いの相手でありますから、一人の異性を複数人のヒロインで取り合うシチュエーションよりも、一人の異性に一人のヒロインのほうがよりサリエリ的です。青い髪のあの子にライバルが居なかったら、何が起こるのでしょうか。
 勘違いしてはいけないのが、ライバルが消えたからと言って障害が無くなったという訳ではなという点です。二つ上の項では適切な具体例が思いつかなかったので触れませんでしたが、サリエリ先生流に行くなら「何らかの事情で」恋愛は成就しません。それは立場上や二人の願望のズレ、あるいはもっと外的な事情が突然降ってくるか分かりませんが、とにかく二人は結ばれません。
 この場合、例えば主人公が病死したり戦争が起こった、みたいな事情だとただの悲恋物語になってしまうので少々複雑ですが、要するに「ライバルも居ないのに、据え膳だったのに上手く行かなかった」という状況にヒロインを落とし込むことが肝心です。理由は告げられなくてもいいかもしれないですね。
 この惨めさ!不条理さよ!これこそ「報われないヒロイン」像の完成形ではないかと信じて止みません。こういうアニメあったら教えてクレメンス!



総評:

 ここまで映画アマデウスの主人公サリエリ先生を例に、報われないヒロインがなぜ可愛いのか、なぜ見てて気持ちが良いのかについて自分なりに明らかにしてきました。これらの文章は意見であり、事実であるとは限らない点についての注意を重ねて述べておきます。
 もし、これを読んだあなたがお話を描こうと思ったら、その時はこの狂ったブログを思い出して、報われないキャラクターを出すかどうか一考してみるのもいいかもしれません。おわり。

 あとちょっと思ったんですけど、アマデウスを登場人物の性別を変えてそのまま、あるいはキャラクターの立ち位置だけを持ち越した別の物語として誂え直したら面白いんじゃないんですかね。

編集中記

 いつもは更新の後に一話分の作業を振り返って反省をするシリーズ「編集後記」ですが、今回は作業方式の変更の関わりもあって全工程終了前に一度メモ的に今回の変更事項について記しておきたいと思います。


・作業方式に係る変更

 従前、私が原稿を仕上げる場合、ネームの後の工程についても工程ごとで区切って1から終わりまで進めていく方式でした。つまり、例えば17pの原稿があったとして、ネームを17pぶん終わらせた次に行うのは鉛筆下書きを17pぶん進めることであり、それが終わったら線画ペン入れを17pぶん一気に進めるというやり方でした。
 漫画を書き始めた当初では、一話分の区切りとか更新当量目安とかの概念がなく思いついた順に5~7pくらいで書いていたのですが、これがプロットを組むことを覚えていくに従って一話の容量が10pを超えるようになり、今ではだいたい週刊連載1話ぶん(15~20弱)くらいでまとまるようになっているのですが、このページ数で上記の方式をすすめると途中で飽きが来ます。飽きるとどうなるかというと、原稿作業を止めて他のことを始め、やがて原稿のことを忘れます。これが従来繰り返されてきた更新遅延の根本原理です。
 新しい作業方式では、作業項目ごとだった作業を、ページごとに変更します(ただしネームについては従来通り一括で行います)。ネーム終了後に行うのは全ページぶんの下書きではなく、1p目の下書きです。その次に行うのは1pの線画、ハッチング、背景、トーン…と続きます。そうして1p目が終了したら、次は2p目の下書きにとりかかるというものです。
 この方式の利点はまさに作業内容が適時変わることで、飽きが来るのを防ぎます。しかしながら、この作業内容が頻繁に変わることがまたデメリットでもあります。作業項目を移る時、例えば下書きが終わって線画に移行するといった状況では、多少の頭の切り替えを要求されます。それが頻繁に来るというのは辛い時は結構つらいもので、時に手がとまったりします。ただ、慣れである程度克服できそうな感じが既にあるので大丈夫そう…だといいな?


・作画技術上の変更

 見かけ上分かる変更として、ハッチングを導入したことについてもここで書きます。以前の私の原稿では、輪郭線以外の色彩や陰影表現はすべてトーンで補っていました。これはあまり見栄えのいいものではなく、私自身ずっと悩んでいました。線の太さで最大限陰影を補ったりしてみましたが、まさか線でびっしり原稿を埋める訳にもいかず、頭を抱えていました。そこで登場するのがハッチング(網掛け)です。
 参考にしたのは宮﨑駿の風の谷のナウシカ(漫画)です。同作はトーン処理を最小限にして、基本的にはハッチングとベタ処理で人物から背景に至るまで色彩と陰影を表現しています。劇画ともちょっと違う、どちらかというと中世ヨーロッパの木版画のような質感です(その上で違和感なく見えるのは宮崎氏の技量によるところ)。ここで詳しい分析は致しませんが、基本的にはこの作風を参考に作画をしていきたいと考え現在も執筆しております。
 具体的な変更点については上げればキリがないほどで、あるいは未だ試行錯誤の状態ですので具体的にこう!とは申し上げがたい部分なのですが、まず黒髪の表現が70%のトーンからハッチング表現に変わりました。見栄えの点では未だ疑問符が浮かぶ程度ですが、表現の自由度という意味では(少なくとも変更については)満足しています。何より、ペン一本でできる表現の幅が広まったというのは純粋に嬉しいことです。


追記:

 そんなわけで一度リリースしましたが、いくつか反省点が見えてきたのでその点についても考慮します。

・ハッチングの密度
 トーンをおさえてハッチングで補ったつもりでしたが、圧倒的に白い原稿になってしまいました。つまりハッチングの密度が足りなかったわけです。また、ハッチングとベタで表すグラデーション表現も黒髪部分だけで使うと周囲が白いので浮くことがハッキリわかりました。もっと黒ベタをガンガン突っ込んでいかなきゃダメそうです(と言うか背景を描け)。追加ついでに、中記時点では仮に禁則としていたハッチングでのグラデーション表現とトーンの併用については、やったほうがよいという事がわかったのでこれも改善します。

・輪郭線のアンチエイリアス
 ラノベっぽいタイトル(笑)。どうも打ち出して縮小した原稿をブラウザで確認すると、そこまで露骨ではないにせよ若干輪郭がささくれているような印象がありました。後で再確認しましたところ、ウェブ表示状態と打ち出した直後では特に変化がなかったので、縮小の仕方が悪かったのか?とも思いましたが作業環境がSai1なので高機能なエンコーディングが出来るわけでもなく困ったなあといった具合です。とりあえずの処置として、描画時の線の品質(従前は速度最優先=荒くなる)の調整など出来る範囲でいくつか条件を変えて試験してみようと考えています。まぁすぐ終わりそうだし

プロフィール

複素数

Author:複素数
名前:複素数
新都社で『伯方さんと僕』という漫画を連載しています。http://neetsha.jp/inside/comic.php?id=12094
pixiv: http://www.pixiv.net/member.php?id=797664

FC2カウンター

フリーエリア

バナーリンク

Firefox ブラウザ無料ダウンロード

QRコード

QRコード