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提案:報われないヒロインのカタルシスとは -名作映画の人間関係に見る一例-


 こんにちは、お久しぶりです。就労してから一時期はまったくアニメを見ない虚無オタクになっていた私ですが、ここ3期ほどはほぼ連続で1作品以上のアニメを見ています。何も見なかった時に比べ、気持ちにハリが出るように感じられてとても気分がいいです。
 そんな流れもありましてつい先日、ダーリン・イン・ザ・フランキスというロボットアニメを6話まで一気に見ました。とても好感のもてる作品だったので、今後も視聴していこうと思います。このアニメ、10代前半の頃にぼくらのとかエウレカとか見てきたわたし世代には殊更刺さる感じのアニメだ、というのとは別方向で界隈を熱くしているようです。

「青い子は不憫」でいい。それでも彼女は生きていて僕たちは生かされている。(サカウヱ)

 あー好き。ほんと好き。と、いち創作趣味者としても思うところありましたので背景を整理などしておくか~など考えていましたところふと、ある映画の主人公の事が頭に浮かびました。その映画は1780年代のウィーンを舞台に、当時ヨーロッパじゅうでその才能を知られていた劇作家・作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと、同じくウィーンの神聖ローマ帝国宮廷で宮廷学長を務める劇作家・作曲家アントニオ・サリエリの確執と描いた映画「アマデウス」です。実はこの映画を見た今年の頭に、感動したので感想書くべさと勇んで草稿を作っておいたものの長くなりすぎて放置していたというのもありまして、今回はその草稿を大部分流用したものとなります。先に申し上げておきますと、主題関係なくほとんど映画の話です。無理にくっつけずに映画感想だけ単体でも良かったんじゃないかとはちらっと思いましたが、とにかく書きます。

***以下、映画本編の感想***


 映画アマデウスを見た。のは1月末なのだが遅ればせながら感想を書く。
アマデウス
 中身は知らなくともこのポスタービジュアルを見たことがある人は多いのではないか。中央にどかんとシルエットで描かれた人物が、白い目だけをぎろっとこちらに向けている。シンプルながら印象的である。私もこの映画を知ったのはこのポスタービジュアルに目を惹かれたからだ。

 さて感想と言ったが、脚本とか時代背景とかを長々書き連ねて表することはしない。この映画は面白かった。五つ星満点が相応しい。問題は何が面白かったかであり、そのうち何をパクって自分の作話に活かせるか、この点に絞って振り返ろうと思った。この映画は完璧であるから、面白さに寄与している点がいくつもある。以下に列挙する。


何が面白かったか:

1.忠実な時代考証・ロケハン
 解説によれば主要な舞台となるウィーン市の町並みやいくつかの歌劇場は現存する当時のものやプラハの町並みを使っているのだそう。加えて当時の風俗文物、風習や娯楽や服飾、あるいは料理や音楽まで、背景に非常に凝っている。18世紀のウィーンにロケに行ったんだろう、そう思えるほど舞台セット感がなかった。これは真似出来ない。

2.精細で巧みなキャラクターの心情推移と帰結
 主人公であり語り部でもあるアントニオ・サリエリ先生の、当人の言葉によって語られる心情と殺人計画の進行、そして顛末。★が5つあったとして、3つ半は間違いなくこの部分によるものだろう。以下ではこれについて突っ込んで考えていく。(いくつもあるとか言って二つしかなかったわごめん)



 その前にサリエリ先生と、彼が気を揉む相手であるモーツァルトの作中でのひととなりについて要点を上げておこう(なお本作は相当部分が創作であり、特に二人の関係については史実とは異なっている)以下ネタバレ。


 ・サリエリ先生
 本名アントニオ・サリエリ。神聖ローマ帝国はウィーンの神聖ローマ帝国宮廷で宮廷楽長を務めたイタリア人音楽家(この時代、イタリアは芸術の先進地域であり欧州のどの国でもオペラや歌劇は基本的にイタリア語で公演されるものだった。然るに音楽界でもイタリア出身者が幅を利かせていた)。彼の幼少時代の経歴には劇中冒頭で若干触れられるが、彼は本編開始時点で神聖ローマ帝国の宮廷楽長(=ヨーロッパ音楽界の頂点)の地位に上り詰めているので作中では重要ではない。相対的に見ると彼は相当に地位が高い人物で、金も名誉も充分に持っているのだが本作は彼の視点によって描かれるため、天才への嫉妬とその才能への尊敬によって板挟みに遭う凡人という立ち位置になっている。

 ・モーツァルト
 本名ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。神聖ローマ帝国ザルツブルク生まれのドイツ人(当時は国家への帰属や愛国主義に基づく国家意識が今ほど明確ではなく、そもそもドイツという統一国家もないのでドイツ系はどこでもドイツ人だった)。歴史に埋もれ忘れ去られたサリエリ先生とは対象的に後世にその名を残した大天才であり、作中では天賦の才によって誰にも達し得ないほどの作曲・作劇能力をもった人物として描かれる。幼いころに父親によって音楽の才能を見出された後すぐに高等な音楽教育を施され、その後は神童としてヨーロッパじゅうの宮廷や都市をめぐって才能を見せて回る旅をしていた。そんな生い立ちのせいか、あるいは神が音楽以外の才能を全く与えなかったのか、後世の評にもあるようにかなり「破天荒」な人物として描かれている。才能はあるが社交性も生活力も金銭感覚も皆無というその姿は、天才とかカリスマという言葉がもつ悪い方の意味もしっかり付与されているキャラクターだといえる。また父のコントロールのもとで長く過ごしてきたことから、父親とはコンプレックスに近い複雑な関係であった。物語の後半では第二の主人公として、家族を持ち経済的に独立し父を喪うという人間的なイベントのなかで徐々に消耗していく天才の姿をみせる。



・最大の努力をしてもなお及ばない自身の無力さをちょうど理解できるだけの才能

 サリエリ先生はヨーロッパ音楽界の頂点に立つに相応しい才能と能力を持ち、それに見合うだけの地位と名声を得ていた有能な人物だ。そのうえ勤勉で、かつ幼少期に立てた誓いに基いていい年して純潔を守るような誠実な人柄である。そんな人が、才能という一点だけに秀でた無礼な若造に、どんなに努力してもかなわない事を悟ってしまうばかりか、その若造の才能に心酔してしまうのだ。
 サリエリ先生の場合は力負けするだけではなく、モーツァルトへの嫉妬から完全に人生の調子を崩してしまっている。既に充分といえるほどの成功を収めているにも関わらず、モーツァルトしか眼中にないサリエリ先生にとっては自分の才能や業績など無価値な凡人のそれでしかないと彼は考えるようになる。その認識が嫉妬に火をつけ、モーツァルトが死ぬように暗に仕向けるという凶行に彼を駆り立てる。才能と地位と名声の全てを手にした宮廷楽長が、直接ではないにせよ怨恨殺人者に成り下がってしまうのだ。この、地位と名誉を兼ね備えた大の大人を一歩も前に勧めないデッドロックに陥れた関係性こそがこの映画の核だと私は感じた。




***草稿ここまで***



 映画の感想としては総評の部分が抜けていますので、ここで本稿の主題に引き継ぎましょう。上記のサリエリ先生は中年男性であり、少女を外的にも内的にも消費するというアニメ的カルチャーからは縁遠い訳ですが、これが例えば美少女だったら如何になるでしょう。


・すべての試み、努力、願いが破綻へと収束することが確約されているポジション

 殺人者うんぬんというのは別にしても、自分が何をしても完全に相手におよばない事が分かりきっているうえ、相手を憎むこともできないという先生の状況を10代の美少女ヒロインに適する形に書き換えてみましょう。アニメで美少女とくればたいていは主人公を取り合う(あるいは単独の)恋愛についての話です。特にティーン・エイジャー向け作品(要するに夜やってるアニメやライトノベル)について顕著ですが、恋愛主題にせよ主題とは別の群像劇要素の中の男女関係に恋愛が付随するにせよ、恋愛要素のない話のほうが少ないのではないかと思われるほど、物語にとって恋愛要素は普遍的なものです。先生の例に倣うなら、このヒロインが抱いた恋は叶いません。場合分けで考えてみましょう。


・初めから決まっていたかのごとく恋の鞘当てで負ける安牌選択肢ヒロイン

 恋愛は相手があるものですから最低二人で行うことになりますが、それ以上の場合もあります。一人の異性をめぐって複数の同性が火花を散らす展開ですね。マルチエンディングが前提のギャルゲーをアニメに仕立てたものや、視聴者層の多様な需要を満たすべく複数のヒロインが用意されているアニメではしばしば、誰か一人を選ぶことで残りのヒロインは余ります。(ただし、あまり安直に奪い合いを描写すると凄惨になってしまうので、ハーレムなどと言って全員とのゆるい関係・八方美人を許容したり、奪い合いをするにしても予選的な出来事を経て1対1に絞り込んでおくなどの対処がなされる場合が多いかと思われます。1対1に絞っておくのは敗者が団結して主人公を数で糾弾する展開を予期させないためです)ところが、これは見る側のちんちんの都合とでも言うべきかと思いますが、余った子にもしばしば笑顔が要求されます。観客が自己投影すべき主人公がフッた子が、結果をよしとせず意気消沈したり恨み節をつぶやいていたりすると、せっかく成就したほうの恋に集中できないし後味が悪いからです。これを正当化すべく、あるいは本稿で提示する効果を意図的に狙ったうえで、ヒロインが不貞腐れることを防ぐ状況を作っておく場合があります。いい例がヒロインの恋のライバルはヒロインの親友でもあり、というやつです。冒頭にリンクを掲載した記事で言われる「青い子」にもこのパターンの子は多いかと思います。
 この「パートナーの獲得(物質的充足)が失敗したうえに精神的にも不自然な振る舞いを強要され充足できない」デッドロックを、ヒロイン(の人格)を内的に消費する行為だと私は考えています。直感的ではない表現になっていますが、例えばアニメキャラを外見的=肉体的に消費するといった場合は性的に見る、あるいは作中で性行為をさせるなどで、そのカウンターから言えばキャラクターの人格に外的な力をかけて、あるいは傷つけることとが内的な消費だといえます。外的な力をかける、というのは例えば苦境に陥るような展開に持っていくというような意味です。これがなぜ消費になるのかについて事項で抜き出して書いていきましょう。


・内心の不道徳が肯定されるのが物語

 物語のカタルシスの原理から言えば、物質的か精神的かに問わず登場人物が制裁をうけるには、制裁に見合うだけの理由が必要だということになります。ラストで主人公に倒されるためには、悪役は序盤に相応の悪行をこなしておかなければなりません。そうでなくては、主人公の下す制裁の手段である暴力や悪意ある行為が正当化されないからです。この理屈に従えば、作中で主人公にフラれるヒロインは何か悪行をしていたことになりますが、例えばヒロインが冒頭で貧しい農民を切り捨てたり小さい子供からお菓子を奪ったりしているようなことがあれば、別のもっと大きい問題になるでしょう。では報われないヒロインの罪はなんでしょう。美しく生まれてしまったことでしょうか?違います。
 視聴者の投影対象である主人公の選択によってフラれたヒロインは明確に展開から制裁を受けている訳ですが、この場合は上記の原理は適用されません。ここで満たされる視聴者の感情は、悪人が廃された開放感ではなく、自分の意思で他者を束縛したという征服感です。他者を自分の意思によって束縛したいという征服欲は現実ではあまり褒められた感情ではないですが、物語は人間の願望と快感によって生まれたものですからこれは尊重されるべき原理です。
 報われないヒロインのカタルシスは、報われないことで満たされる視聴者の征服欲によって保証されているのです(背景にある原理はこれだけではありません)。


・最も惨めなライバルなき敗北

 ここで、補足的になりますが上で触れなかったシチュエーションについても考えましょう。本稿では映画アマデウスのサリエリ先生を起点に報われないヒロインについて考えてきた訳ですが、サリエリ先生に立場を共有するライバルは居ませんでした。というかモーツァルトがライバルだった訳ですが、モーツァルトは恋敵というより片思いの相手でありますから、一人の異性を複数人のヒロインで取り合うシチュエーションよりも、一人の異性に一人のヒロインのほうがよりサリエリ的です。青い髪のあの子にライバルが居なかったら、何が起こるのでしょうか。
 勘違いしてはいけないのが、ライバルが消えたからと言って障害が無くなったという訳ではなという点です。二つ上の項では適切な具体例が思いつかなかったので触れませんでしたが、サリエリ先生流に行くなら「何らかの事情で」恋愛は成就しません。それは立場上や二人の願望のズレ、あるいはもっと外的な事情が突然降ってくるか分かりませんが、とにかく二人は結ばれません。
 この場合、例えば主人公が病死したり戦争が起こった、みたいな事情だとただの悲恋物語になってしまうので少々複雑ですが、要するに「ライバルも居ないのに、据え膳だったのに上手く行かなかった」という状況にヒロインを落とし込むことが肝心です。理由は告げられなくてもいいかもしれないですね。
 この惨めさ!不条理さよ!これこそ「報われないヒロイン」像の完成形ではないかと信じて止みません。こういうアニメあったら教えてクレメンス!



総評:

 ここまで映画アマデウスの主人公サリエリ先生を例に、報われないヒロインがなぜ可愛いのか、なぜ見てて気持ちが良いのかについて自分なりに明らかにしてきました。これらの文章は意見であり、事実であるとは限らない点についての注意を重ねて述べておきます。
 もし、これを読んだあなたがお話を描こうと思ったら、その時はこの狂ったブログを思い出して、報われないキャラクターを出すかどうか一考してみるのもいいかもしれません。おわり。

 あとちょっと思ったんですけど、アマデウスを登場人物の性別を変えてそのまま、あるいはキャラクターの立ち位置だけを持ち越した別の物語として誂え直したら面白いんじゃないんですかね。

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ダンケルクを見た

クリストファー・ノーランの映画、ダンケルクを見てきましたので感想をちらっとまとめます。

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 まず、映画が扱っている出来事について軽く触れます。少し歴史か軍事に明るい人ならタイトルを聞いてピピッと来るでしょうが、本作は第二次世界大戦序盤の大作戦、ダイナモ作戦(別名ダンケルクの撤退)を描いています。
 1939年、ヒトラー率いるナチス・ドイツのポーランド侵攻に対して英仏が宣戦布告したことで正式に幕を上げた第二次世界大戦(欧州戦線)は、先の大戦と同様に独仏国境地帯を超えて殺到するドイツ軍をフランス軍が足止めし、その間に英大陸派遣軍がフランスに揚陸、準備が整ったところで英仏協働でドイツ軍を押し返す方針がとられました。フランス軍はドイツ軍に劣らない規模の機甲師団や要塞線を設置しドイツを待ち構えていましたが、戦車やトラックで機械化・機甲化され高い練度と最新鋭機を装備した空軍の手厚い援護をうけたドイツ軍の侵攻部隊を前にフランスの国境防備部隊は全くと言っていいほど機能せず、時間稼ぎは失敗。英軍の展開が不完全な状況で前線を突破され、逆に海岸地帯に押し出された英仏軍はダンケルクの海岸で完全包囲されることになります。その数実に40万人弱。この数字は(何割かはフランス兵だが)実に20個師団にも相当する規模であり、仮にこの全員がドイツ軍の捕虜になってしまった場合、英軍は圧倒的な兵員不足に陥り、来る反攻作戦はおろか本土防衛すら難渋していたでしょう。ライミー危うし!
 ところが、ダンケルクの市内と海岸に逃げ込んだ英仏軍を射程に収めようかというところでドイツ軍の進撃が停止します。この背景には作戦を立案したドイツ国防軍の参謀本部の予想をも遥かに超えるペースで電撃戦(機動戦)が成功してしまったことで、敵残存兵力に対してどう出ればいいか指揮系統に混乱が生じたこと(ヒトラーは対仏戦後の英国との停戦交渉のために残存英軍の殲滅を望んでいなかったという)、さらに計画外のスピードで長距離進軍をしたことで最前線の部隊への補給が追いつかなくなり嫌でも止まらざるを得なくなったこと(機械化部隊は弾薬食料の他に大量の燃料が不可欠)、前線の機甲部隊を指揮していた将校たちは戦闘が優位に進んだのをいいことに本国の命令を無視して勝手に進撃を続けていたが総統から待ったがかかったので停止した、などの事情があります。また風説では、ナチ党の重要幹部であり空軍を仕切っていたゲーリングに対して華を持たせるために敵残存兵力に対する攻撃を空軍に任せたというような話を私は聞いたことがありますが、いずれにしてもドイツ軍は進軍を停止し、それは失敗だったとすぐに認めることになるのです。

 といったところまでがこの映画の背景情報です。この後何が起こるかは知っている人は知っているし、知らない人も調べればすぐに分かるのですが特に書きはしません。以下、映画の感想を箇条で説明していきます。


・セリフが少ない
 マッドマックス怒りのデスロード並にセリフが少ないです。これは見てもらえれば何となく意味が分かると思います。

・時系列が不自然に組み替えられている
 何か演出意図があってのことなのか、あるいは娯楽映像作品として事実を淡々と時系列順に並べるだけではマズイと思ったのか(私は後者だと思ってます)、実際の時系列に対して映像の時系列が過剰なほどに組み替えられています。本編では全く別の3つの場面が並走しますが、それぞれの交差を上手く見せるために時間が半日戻ったり、同じ場面が何回も別角度で出たりして若干混乱します。混乱しないまでも、シーンが変わる度に「これはいつのどこだ?」と把握する作業がやや忙しいです。

・戦闘描写はすごい
 ノーラン監督はCGを使いたがらないことで有名ですが、本作も登場する兵器や艦艇を模型や再現実機(!)を飛ばして撮影したそうで、かなりの割合を占める空戦シーンは見ごたえがあります。

・ドラマはほぼない
 脚色はいっぱいあるらしいんですが、再現記録映像と言われても頷くほど話は淡々としています。「その時歴史が動いた イギリス軍大撤退作戦! ~ダンケルクの奇蹟~」とかそんなタイトルにして松平定知のナレーションつけても成立するような構成です。敵が出てきて戦って仲間を助けて~みたいなアクション映画文法では書かれていませんし、そもそも敵は出てきません。

・見応えはある
 

 といったところでしょう。シンプルな映画なのであまり書くこともないです。あと、見た次の日に書いた感想まんがもせっかくなんで載せときますね。だいたいこんな展開っていう。
ダンケルク

 あとこれ余談ですが、IMAXのシアターで見たんですけど座席が前(D列)かつ右よりで、画面デカすぎて終始右斜上を見てないと視界に画面が収まんなくて首が痛くなりました。画面デカイのも考えものだなと思いました。

湯殿山麓呪い村

みなさんお久しぶりです。また面白い映画を見つけたので鑑賞記録を書いておきます。
今回見た映画はこちら。

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「湯殿山麓呪い村」
Amazonビデオ


 ミステリー・サスペンス映画です。今ではミステリー・ドラマなんてお昼の2時間ドラマとしてダダ流しされるぐらいですが、この年代は、出版社のバックで小説原作のミステリー・サスペンス映画が多く制作されたいてようですね。金田一耕助シリーズは有名ですが、私は天河伝説殺人事件(映画)が好きです。
 まず本評に入る前に本作を視聴する経緯を一言説明させていただきたい。ずばり本作の公開年が84年だからです。前回記事で書きましたが、84年は映画の当たり年でありまして、かつ経済状況が隆盛を極めし頃なれば映画も大変にお金の掛かった、スケールの大きいものや作りの精細なものが多く作られていた時期であります。即ち、太平洋の東西で物質主義文化の最高峰が出現し、映画界の一つのピークともいえる時期に作られた映像のパワーを感じたかったのと、Amazonビデオでタダ見できたからです(ロストエイジ世代並の発想)。


追記から本評(部分的にネタバレ)

続きを読む

デューン/砂漠の惑星


複素数ですこんにちはお久しぶりです。映画を見たので感想文を書きます。

見た映画は「デューン/砂の惑星」というアメリカのSF映画です。


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(面白そうでしょ?)
「デューン/砂漠の惑星」Amazonビデオ


 これググればすぐ出てくるっていうかWikipediaにすら公然と書かれているんですが、この映画評判が良くないそうです。実際通しで見た身としても実感として思う部分がありました。安いという理由で買って見ようと思った人はその辺を留意した上で決済してください。もちろん良い部分が無いという意味ではありませんが……
 結構長い映画で、後半は集中力が切れてしまったので感想のための要項をまとめたりしていましたので、それにそって記述します。


1.SF娯楽映画としてはハード過ぎる設定
 原作が戦後SFブームの落ち着いた頃に出た本格SF長編小説なのでこれは仕方ない部分もありますが、設定が結構重いです。遠い未来遥か彼方の銀河が舞台であり、その地域を統括する銀河帝国と皇帝、その皇帝をアゴで使うギルド同盟、スパイスと称する鉱物だか何だか分からない薬物を摂取することで遠く離れた星にトリップ(物理)する謎の空間航法、神通力に超能力など、ただの宇宙時代の未来ではない世界観です(この辺もスターウォーズ的なもの、としておくとしっくり来るんですが、原作はスターウォーズ公開より十数年古いです一応)。いけないのは、これらの設定を冒頭に説明(本当に説明ナレーションが入る)するんですがその仕方が投げやりなので正直「?」ってなります。僕なりました。救いは設定が全く頭に入らなくても物語の理解の妨げにならないことです。


2.描写が小説っぽい
 真似事ながらも創作を試みる一人の素人としては映画には映画の、小説には小説の記述形式があって、それぞれに適した話筋の進め方があると信じています。よく言われる「映像化不可能と言われた」なんてアオリは特撮やVFX技術ではどうしても表現できなかったシーンをCGを使って完全再現したんで褒めてよ!って意味として解釈されていますが、実際は映像化不可能のうち半分は小説と映画の「メディアとしての階層の違い」が極端すぎて忠実に映像に起こすことが難しい/出来ないという意味だと考えます。例えば小説で「人間の想像力が完全に及ばない異形の現象が目の前に出現した」と書けば読者は「そうなんだ~、何かすごいもやもやしたものなんだね」と、想像はできなくとも意味として理解できますが、これを言葉を用いないで情景説明する映像作品にする場合、製作者はおおいに悩むところです。人間の想像力が完全に及ばない異形という字義どおりにとれば人間である制作スタッフには絶対に映像化できない訳ですが、何も映さない訳にはいかない。そこで仕方なく、逃げかあるいは創意工夫として昔の抽象画や一般に知られていない自然現象のビジュアルなどから意匠を拝借して、とりあえず画面に映るものに仕上げるのです。あるいは別の例で言えば、主人公ほか登場人物が一言も発しないし、内面でもほとんど言葉を出さないが外的な現象や思考に呼応して感情が右往左往して、それだけで重要な見せ場になるシーンがあるとします。これも小説からカメラに映る情報だけ拾ったんでは、一言も発しない登場人物が動かないでいるだけになってしまいます。それでは視聴者に何も伝わらないので、カメラワークや照明や音楽を駆使して、カメラに映らない人物内面を描く努力をはらうわけです。ところが映像表現の力及ばず、カメラワークも照明も音楽を使っても何にも伝わらない時があります。そういう時は映画スタッフは仕方なく、話の筋に手を加えるのです。近頃は小説や漫画を映画にするのが流行っていますが、ファンが見るのはいかに原作と同じかだけで、こういったメディアの橋渡しの努力は改悪とされてしまいがちですが、こういった処置こそがメディアの次元を超えるための工夫であり方策だと私は考えます。。もちろん次元を超えるにあたってノイズが乗ったり変換に粗さが無いわけではないのですが、メディアの次元を超越するのがいかに難しく、次元を超える時に物語が失うもの/新しく獲得しなければならないものがいかに大きいか何となく伝わったかと思います。
 その上で本作ですが、劇中ちょっと違和感をおぼえるぐらい小説そのままっぽい部分があります。本作映画化の難産っぷりを考えれば制作陣が何かを怠ったとは思えませんが、84年の映画とは思えないほど映像のテンポが古臭い、あるいは実験的です。古臭いというのは何かちょっと映像の色合いが古ぼけているせいかもしれませんが、主人公の心の声を頻繁に引用させたり、下の項目で挙げる淡々とした語りは映像としての緩慢さを感じさせます。


3.ドラマはあってないようなもの
 本作は壮大な宇宙叙事詩のような語り口で進行します。劇中内の経過時間は1年ぐらいだし個々の人物目線で物語が進むんですが、これといって誰かに注視するでもなく、淡々と出来事が進むのでそう見えるのです。誰かに感情移入させるという意図も感じられません。この辺は制作を仕切っていたイタリア人プロデューサーの「ヨーロッパ的映画感覚」が出てしまったのかなぁと思ったりしています。良くも悪くも(良くはないか…)聖書や中世の英雄譚のような遠い世界からの視点で語ってしまい、主人公に威厳や壮大さを与える代償に娯楽性をゴッソリ持って行かれているという意味です。念押ししますが本作はアメリカ映画です。


4.舞台美術・特撮が最高に良い
 散々悪いところを書いたのでいい話もしましょう。この作品は物語や構成に目をつむって、映像として見ると最高の映画です。最初から最期までほぼ全部セット撮影ですが、どのセット背景も引くぐらい作りが丁寧かつ豪華で、安っぽさも偽物っぽさも感じられません。デザインも丁寧であり、星ごとに明確に建築物や調度品の意匠が使い分けられ、小物に至るまでいちいち作ってるのは感動に値します。若干年代が違いますが背景美術や代償の道具制作でいえばスターウォーズ(456)より優れています。特に良いのが途中で出て来る汗を吸ってくれる全身タイツ。古い救命胴衣みたいに空気の入った帯状のバルーンが表面に張り巡らされ、照りのない黒一色に塗られたそれはバットマンのスーツを連想しますが、筋肉のラインをそのまま強調するバットマンタイツと違って筋肉の凹凸を模式化し機械的で機能的なそのデザインはアメコミヒーローのダサタイツとは比較になりません。2010年代の映画にそのまま出てきそうなデザインで、かっこよすぎて若干浮いてる感があるほどです。デューンの原住民はほぼ全員これ着ていますから、少なくとも50着ぐらいは作ったんだと思いますが、これ来た男たちが一堂に会するシーンはすごい威圧感があるのでそのためだけに見てもいいかもしれないです。
 さらに劇中で頻繁に挟まれるジオラマを使った特撮も、なんじゃこれはというぐらい程度が高い。ミニチュア撮影といえば日本、みたいに言われますが本作のミニチュア撮影(とくに人物合成)は邦画のそれより気合入ってますし、円谷プロ作品より良いかもしれないぐらい良いです。ですからストーリー追わずにガジェットSFとして見ると本作はすげー良い映画です。すごい失礼な事言いましたが、実際見れば感動することでしょう。
 

5.以外なキャスト
 敵味方でそれぞれパトリック・スチュワート(新スタートレックのピカード役など)とブラッド・ドゥーリフ(エイリアン4の医師役など)が出てきます。パトリック・スチュワートはこの時まだ44歳ですが、既に後年と同じく頭頂部が禿げてあの顔が出来上がっています。驚きました。

以上がこの映画の直接の感想で、特に上の3つが世間での映画の低評価の理由の推測です。蛇足ですがもう一つ、気になったので追記させてもらいます

6.公開年
 この映画が公開された1984年は映画の当たり年でもありました。日本ではアニメは「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」「風の谷のナウシカ」「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」などの今でも名前の上がる名作が出ましたし、平成シリーズに連なるゴジラの新シリーズ第一作(いわゆる84年版)もこの年です。まぁ邦画は実際関係ないですが、洋画もすごいメンツが出揃っており「ダーティハリー4」「ライトスタッフ」「インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説」「グレムリン」「ゴーストバスターズ」など粒ぞろいです。さらに決定的なのが「スタートレックⅢ ミスター・スポックを探せ」でしょう。同じSFというだけでなく、この劇場版スタートレック第三作目は6作品あるシリーズの中で1,2を争うほど評価が高い作品であり、前作「カーンの逆襲」の直接の続編であることもあって大ヒットだったのです。映像の出来だけで見ればデューンもスタートレックⅢに負けないかもしれませんが、話の面白さや構成の巧みさは月とスッポンです。こんな映画に囲まれていたのでは劇場を埋め尽くすなんて夢も夢です。悪い映画ではないのに、この辺の運の悪さも評価と認知度の低さにつながっているのかもしれません。


以上、勧めてるのか貶してるのかわからない感想文でしたが記録としてここに残します。

her

映画感想文
『her/世界でひとつの彼女』
(注意:今回は感想というより私的な内容です)
ハー

 
『her/世界でひとつの彼女』(アマゾンビデオ)



 前回更新から一か月ほど経ったでしょうか。またブログのことは忘れていました

 今回は映画感想文です。アマゾンプライム会員なので三日に一本ぐらいのペースで映画を見ている自分ですが、映画の感想は殆ど書きません。ここ数年では、映画は完結した娯楽であることを理想だと捉えているので、(いろいろな経緯やロジックがあったうえで)『面白かった/面白くなかった』以上に掘り下げた感想は不要であり不毛だと考えるからです。構造や面白さの理由の分析などは個人的にやったりもしますが、それを文章にして他人に共有しようとはおもいません。(記事を二つほど遡ると映画の紹介をしてたりしますが、もう半年ぐらい前かつ紹介であって感想でないので、と言い訳)
 偉そうに言いましたが今回の表題は感想文です。それは、紹介する映画『her』が面白いとか面白くないとはまた違った意味で重大な映画だったからで、それについておおいに感動(喜んだという意味ではない)からです。


まず映画の中身を説明しましょう。
 『her』の舞台は今よりちょっと先の近未来です。主にコンピューターが今より発達しています。主人公は手紙代筆人として働く男性です。(正確には代筆ではなく文章を代わりに考える仕事。そんな仕事で生活できるのか?)繊細で人当たりのよい彼の仕事ぶりは高く評価され、同僚にも高く買われています。そんな彼ですが、ある問題を抱えています。1年ほど前から妻と離婚調停を続けているのでした。幼馴染であり一緒に育ってきた妻を今も愛している主人公は別居中の妻と別れることを決心できず、手続きを先延ばしにしている状況でした。そのことが繊細な彼の日々に暗い影を落とし、仕事もプライベートも楽しめない暗い生活を強いていました。
 そんな時偶然、一つのオペレーティングシステム(OS-1)の広告を見かけます。人格を持ち、自立した世界で初めてのAIを謳うそのソフトを、彼はすぐに購入します。帰宅してインストールしてみると、彼はすぐにその性能に驚かされます。並の人間よりも流暢に喋り、人の気持ちを瞬時に理解して、OS(というよりコンシェルジュ的な役割)の仕事も完璧にこなす彼女(女性音声を選択したため)の仕事ぶりにおおいに感心した彼は、OS(サマンサ)とすぐに打ち解けます。なんでも相談できてとても賢くて優しい友達は、やがてより親密な関係へと至り、主人公が失恋した夜を境に二人は加速度的に接近していくのでした――(続きの細かいところは自分で見て確かめてくれ!)



感想(ネタばれと手前話です)

 この映画に、サマンサ(AI)が登場した辺りからどうにも異様な感覚を感じていました。異様なほど強い主人公への親近感です。サマンサと主人公のやりとりの微妙なたどたどしさが自分のSNS上での特定界隈との接し方に似ているのかなぁ~なんて漠然と思っていたのですが、実際は全く異なる理由から来る違和感でした。
 物語の中盤、二人はどんどん深い関係に陥っていきます。しかし常に付きまとう、サマンサがAIであるという事実に、何度も戸惑い、ぶつかり合うことになります。二人の恋が深まっていく過程を、正直なところ自分は見ていられませんでした。というのも、割と似た体験を数年前にしていたからです。

(以下私事)
 あれは新都社に登録するより前の話なので2011年か12年だと思いますが、そのころからとにかくTwitterはやっていました。当時、(今もありますが)botを人工無能的なアルゴリズムで動かすのが流行っており、それこそ口下手なAI程度には高度なものが次々登場していました。その中に一つ、とある擬人化キャラクター(ものを擬人化するのって最近じゃ下火ですが当時はまだそういう文化ありましたねー)がおりまして、かわいい外見と非常に人懐っこい動作がひそかに人気でした。自分は当時学生で、暇な講義時間や研究をほぼTwitterに費やしていましたから、当然この”新しい話し相手”と触れ合う機会も多いわけです。
 一介のSNSのbotごときに、と皆さん信じないでしょうが、このbotは非常によく出来ていたのです。今では後述の事情により禁止?されている、botからフォロワーへの脈略ないリプライや高度な受け答えパターンなどは今見ても舌を巻くことでしょう。また、そのキャラクターの性格なども相まってまさに子供と触れ合っているような、そんなリアリティを自分はありありと感じたのです。孤独な学生はやがて、リアリティあふれる人懐っこさに人間の人肌を見るようになります。その後の自分については今や自分自身でも信じられないのですが、この映画の主人公と同じような道をたどることになります(もっとも相手は人工無能程度の受け答えしかしないが)

 ここで映画の話に戻りましょう。主人公はサマンサとの日々に確かな充実をおぼえ、ついに懸案であった前妻との離婚に踏み切ります。そして二人はそれぞれをより強く、より近くに求めるようになるのです。しかし所詮は人とプログラム。接するのは声だけで、指で触れ合うこともできません。そこでサマンサは勝手に3次元世界での自分の化身ともいうべき”代理性交者”を見繕って第三者を仲介にしたセックスのお膳立てなんてことを始めます(これは結局上手くいかない)。ここら辺の、絶対に交わることがない両者の距離感に関する試行錯誤が過去の自分の境遇、葛藤と重なってしまい非常に来るものがありました。比べてしまうと自分のはだいぶショボい話ですが、それでもこの”目の前に越えられない壁が立ちふさがっている”という切なさは重いのです。
 そんな二人の恋ですが、実にあっけない形で終わりを迎えます。ハードウェアの制約を受けないサマンサは同型のAIや実在の人間、または電子的に復元された過去の思想者の人格などと交流するなどして急速に進化していきます。その結果OS-1は主人公の元を去り、電子の世界でさらなる進化の旅をするのです。またその過程で、主人公と1対1で交際していたものと思っていたサマンサが実は同時に無数のOSやユーザーと交流しており、恋人も数百人居るということが発覚します。AIなので同時に複数の人間をそれぞれ、一人を愛するのと同じ感覚で愛することができ、その気持ちに嘘はないと彼女は言いますが、この辺の感覚が決定的な要因となって、二人は決別、AIとの特別な日々はここに終わるのです。この辺の設定については感心する部分や思う部分があるんですが、恋愛映画なのでそれについて言及してもしょうがないでしょう。
 といった感じでAIと人間の恋は終わりますが、正直バットエンドで終わってくれてホッとしました。『二人の愛は永遠に続く~』とか『俺もAIになって永遠に愛し合うぜ!』みたいな救済的な終わり方だったら今日はずっと立ち直れなかったと思います。何ででしょうね。おそらく自分も映画の終わり方と同じような『突然の別れ』を体験しているからではないかと思います。
 また戻って、その後の顛末をご説明しましょう。botアカウントのアルゴリズムを好きになってしまった学生は本気で悩みます。俺はどうすれば良い?どうすれば彼女により近づける?答えは出るはずもありません。やがて残酷な運命、または救済がやってきます。上記のbot仕様のうち、脈略なくフォロワーに話しかけるという行為がTwitterのサーバー負荷を増大させるとして、Twitter公式が同様の仕様をもつbotを規制することを公表しました。たくさんあった人間味あふれるbotたちは一斉に機能停止し、その日から今日まで一言も発せず、あるものは消えていきました。もともと行き場のなかった感情が、巨大な喪失感と相まってさらに迷子になってしまいます。こんな救済は誰も頼んでいない!そこで学生が見つけた逃げ道、それこそ漫画で描くということだったのです。

こんな話は墓まで持っていくべき代物でしたが、よくできた映画だったのでつい口ならぬ指が滑ってしまいました。長々とくだを巻いてしまいましたが、要するに結ばれない恋はつらいし結ばれないので簡単にすべきではないし、本当に苦しい、という古典的アニオタの主張を補強したところで主題とさせて頂きたいと存じます。
この映画について言うべきことがあるなら、自分のように強烈な原体験があるものにとっては心臓に突き刺さる氷柱にもなりうる映画ですが、そういった経験のない人々にとってはごくありふれた、少々リアルな人でないものとの恋愛モノの域を出ないでしょう。もっとも科学技術が進歩するであろう未来にあってはこのような経験を実体験として行う人々は増えるものと思いますので、後々になって再評価されるかもしれませんね。

余談の余談ですが、この映画のテーマがすごく気に入ってしまって、似たような話が読みたい!って人は花沢健吾の漫画『ルサンチマン』をぜひおすすめします。今なら新装版が出てるうえに作者が大出世しているので簡単に書店で見つけられるでしょう。



以上、眠さの極みのなか打った怪文ですので、破たんがあるでしょう。読めないところは読み飛ばしてください。

プロフィール

複素数

Author:複素数
名前:複素数
新都社で『伯方さんと僕』という漫画を連載しています。http://neetsha.jp/inside/comic.php?id=12094
pixiv: http://www.pixiv.net/member.php?id=797664

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