湯殿山麓呪い村

みなさんお久しぶりです。また面白い映画を見つけたので鑑賞記録を書いておきます。
今回見た映画はこちら。

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「湯殿山麓呪い村」
Amazonビデオ


 ミステリー・サスペンス映画です。今ではミステリー・ドラマなんてお昼の2時間ドラマとしてダダ流しされるぐらいですが、この年代は、出版社のバックで小説原作のミステリー・サスペンス映画が多く制作されたいてようですね。金田一耕助シリーズは有名ですが、私は天河伝説殺人事件(映画)が好きです。
 まず本評に入る前に本作を視聴する経緯を一言説明させていただきたい。ずばり本作の公開年が84年だからです。前回記事で書きましたが、84年は映画の当たり年でありまして、かつ経済状況が隆盛を極めし頃なれば映画も大変にお金の掛かった、スケールの大きいものや作りの精細なものが多く作られていた時期であります。即ち、太平洋の東西で物質主義文化の最高峰が出現し、映画界の一つのピークともいえる時期に作られた映像のパワーを感じたかったのと、Amazonビデオでタダ見できたからです(ロストエイジ世代並の発想)。


追記から本評(部分的にネタバレ)

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デューン/砂漠の惑星


複素数ですこんにちはお久しぶりです。映画を見たので感想文を書きます。

見た映画は「デューン/砂の惑星」というアメリカのSF映画です。


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(面白そうでしょ?)
「デューン/砂漠の惑星」Amazonビデオ


 これググればすぐ出てくるっていうかWikipediaにすら公然と書かれているんですが、この映画評判が良くないそうです。実際通しで見た身としても実感として思う部分がありました。安いという理由で買って見ようと思った人はその辺を留意した上で決済してください。もちろん良い部分が無いという意味ではありませんが……
 結構長い映画で、後半は集中力が切れてしまったので感想のための要項をまとめたりしていましたので、それにそって記述します。


1.SF娯楽映画としてはハード過ぎる設定
 原作が戦後SFブームの落ち着いた頃に出た本格SF長編小説なのでこれは仕方ない部分もありますが、設定が結構重いです。遠い未来遥か彼方の銀河が舞台であり、その地域を統括する銀河帝国と皇帝、その皇帝をアゴで使うギルド同盟、スパイスと称する鉱物だか何だか分からない薬物を摂取することで遠く離れた星にトリップ(物理)する謎の空間航法、神通力に超能力など、ただの宇宙時代の未来ではない世界観です(この辺もスターウォーズ的なもの、としておくとしっくり来るんですが、原作はスターウォーズ公開より十数年古いです一応)。いけないのは、これらの設定を冒頭に説明(本当に説明ナレーションが入る)するんですがその仕方が投げやりなので正直「?」ってなります。僕なりました。救いは設定が全く頭に入らなくても物語の理解の妨げにならないことです。


2.描写が小説っぽい
 真似事ながらも創作を試みる一人の素人としては映画には映画の、小説には小説の記述形式があって、それぞれに適した話筋の進め方があると信じています。よく言われる「映像化不可能と言われた」なんてアオリは特撮やVFX技術ではどうしても表現できなかったシーンをCGを使って完全再現したんで褒めてよ!って意味として解釈されていますが、実際は映像化不可能のうち半分は小説と映画の「メディアとしての階層の違い」が極端すぎて忠実に映像に起こすことが難しい/出来ないという意味だと考えます。例えば小説で「人間の想像力が完全に及ばない異形の現象が目の前に出現した」と書けば読者は「そうなんだ~、何かすごいもやもやしたものなんだね」と、想像はできなくとも意味として理解できますが、これを言葉を用いないで情景説明する映像作品にする場合、製作者はおおいに悩むところです。人間の想像力が完全に及ばない異形という字義どおりにとれば人間である制作スタッフには絶対に映像化できない訳ですが、何も映さない訳にはいかない。そこで仕方なく、逃げかあるいは創意工夫として昔の抽象画や一般に知られていない自然現象のビジュアルなどから意匠を拝借して、とりあえず画面に映るものに仕上げるのです。あるいは別の例で言えば、主人公ほか登場人物が一言も発しないし、内面でもほとんど言葉を出さないが外的な現象や思考に呼応して感情が右往左往して、それだけで重要な見せ場になるシーンがあるとします。これも小説からカメラに映る情報だけ拾ったんでは、一言も発しない登場人物が動かないでいるだけになってしまいます。それでは視聴者に何も伝わらないので、カメラワークや照明や音楽を駆使して、カメラに映らない人物内面を描く努力をはらうわけです。ところが映像表現の力及ばず、カメラワークも照明も音楽を使っても何にも伝わらない時があります。そういう時は映画スタッフは仕方なく、話の筋に手を加えるのです。近頃は小説や漫画を映画にするのが流行っていますが、ファンが見るのはいかに原作と同じかだけで、こういったメディアの橋渡しの努力は改悪とされてしまいがちですが、こういった処置こそがメディアの次元を超えるための工夫であり方策だと私は考えます。。もちろん次元を超えるにあたってノイズが乗ったり変換に粗さが無いわけではないのですが、メディアの次元を超越するのがいかに難しく、次元を超える時に物語が失うもの/新しく獲得しなければならないものがいかに大きいか何となく伝わったかと思います。
 その上で本作ですが、劇中ちょっと違和感をおぼえるぐらい小説そのままっぽい部分があります。本作映画化の難産っぷりを考えれば制作陣が何かを怠ったとは思えませんが、84年の映画とは思えないほど映像のテンポが古臭い、あるいは実験的です。古臭いというのは何かちょっと映像の色合いが古ぼけているせいかもしれませんが、主人公の心の声を頻繁に引用させたり、下の項目で挙げる淡々とした語りは映像としての緩慢さを感じさせます。


3.ドラマはあってないようなもの
 本作は壮大な宇宙叙事詩のような語り口で進行します。劇中内の経過時間は1年ぐらいだし個々の人物目線で物語が進むんですが、これといって誰かに注視するでもなく、淡々と出来事が進むのでそう見えるのです。誰かに感情移入させるという意図も感じられません。この辺は制作を仕切っていたイタリア人プロデューサーの「ヨーロッパ的映画感覚」が出てしまったのかなぁと思ったりしています。良くも悪くも(良くはないか…)聖書や中世の英雄譚のような遠い世界からの視点で語ってしまい、主人公に威厳や壮大さを与える代償に娯楽性をゴッソリ持って行かれているという意味です。念押ししますが本作はアメリカ映画です。


4.舞台美術・特撮が最高に良い
 散々悪いところを書いたのでいい話もしましょう。この作品は物語や構成に目をつむって、映像として見ると最高の映画です。最初から最期までほぼ全部セット撮影ですが、どのセット背景も引くぐらい作りが丁寧かつ豪華で、安っぽさも偽物っぽさも感じられません。デザインも丁寧であり、星ごとに明確に建築物や調度品の意匠が使い分けられ、小物に至るまでいちいち作ってるのは感動に値します。若干年代が違いますが背景美術や代償の道具制作でいえばスターウォーズ(456)より優れています。特に良いのが途中で出て来る汗を吸ってくれる全身タイツ。古い救命胴衣みたいに空気の入った帯状のバルーンが表面に張り巡らされ、照りのない黒一色に塗られたそれはバットマンのスーツを連想しますが、筋肉のラインをそのまま強調するバットマンタイツと違って筋肉の凹凸を模式化し機械的で機能的なそのデザインはアメコミヒーローのダサタイツとは比較になりません。2010年代の映画にそのまま出てきそうなデザインで、かっこよすぎて若干浮いてる感があるほどです。デューンの原住民はほぼ全員これ着ていますから、少なくとも50着ぐらいは作ったんだと思いますが、これ来た男たちが一堂に会するシーンはすごい威圧感があるのでそのためだけに見てもいいかもしれないです。
 さらに劇中で頻繁に挟まれるジオラマを使った特撮も、なんじゃこれはというぐらい程度が高い。ミニチュア撮影といえば日本、みたいに言われますが本作のミニチュア撮影(とくに人物合成)は邦画のそれより気合入ってますし、円谷プロ作品より良いかもしれないぐらい良いです。ですからストーリー追わずにガジェットSFとして見ると本作はすげー良い映画です。すごい失礼な事言いましたが、実際見れば感動することでしょう。
 

5.以外なキャスト
 敵味方でそれぞれパトリック・スチュワート(新スタートレックのピカード役など)とブラッド・ドゥーリフ(エイリアン4の医師役など)が出てきます。パトリック・スチュワートはこの時まだ44歳ですが、既に後年と同じく頭頂部が禿げてあの顔が出来上がっています。驚きました。

以上がこの映画の直接の感想で、特に上の3つが世間での映画の低評価の理由の推測です。蛇足ですがもう一つ、気になったので追記させてもらいます

6.公開年
 この映画が公開された1984年は映画の当たり年でもありました。日本ではアニメは「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」「風の谷のナウシカ」「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」などの今でも名前の上がる名作が出ましたし、平成シリーズに連なるゴジラの新シリーズ第一作(いわゆる84年版)もこの年です。まぁ邦画は実際関係ないですが、洋画もすごいメンツが出揃っており「ダーティハリー4」「ライトスタッフ」「インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説」「グレムリン」「ゴーストバスターズ」など粒ぞろいです。さらに決定的なのが「スタートレックⅢ ミスター・スポックを探せ」でしょう。同じSFというだけでなく、この劇場版スタートレック第三作目は6作品あるシリーズの中で1,2を争うほど評価が高い作品であり、前作「カーンの逆襲」の直接の続編であることもあって大ヒットだったのです。映像の出来だけで見ればデューンもスタートレックⅢに負けないかもしれませんが、話の面白さや構成の巧みさは月とスッポンです。こんな映画に囲まれていたのでは劇場を埋め尽くすなんて夢も夢です。悪い映画ではないのに、この辺の運の悪さも評価と認知度の低さにつながっているのかもしれません。


以上、勧めてるのか貶してるのかわからない感想文でしたが記録としてここに残します。

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映画感想文
『her/世界でひとつの彼女』
(注意:今回は感想というより私的な内容です)
ハー

 
『her/世界でひとつの彼女』(アマゾンビデオ)



 前回更新から一か月ほど経ったでしょうか。またブログのことは忘れていました

 今回は映画感想文です。アマゾンプライム会員なので三日に一本ぐらいのペースで映画を見ている自分ですが、映画の感想は殆ど書きません。ここ数年では、映画は完結した娯楽であることを理想だと捉えているので、(いろいろな経緯やロジックがあったうえで)『面白かった/面白くなかった』以上に掘り下げた感想は不要であり不毛だと考えるからです。構造や面白さの理由の分析などは個人的にやったりもしますが、それを文章にして他人に共有しようとはおもいません。(記事を二つほど遡ると映画の紹介をしてたりしますが、もう半年ぐらい前かつ紹介であって感想でないので、と言い訳)
 偉そうに言いましたが今回の表題は感想文です。それは、紹介する映画『her』が面白いとか面白くないとはまた違った意味で重大な映画だったからで、それについておおいに感動(喜んだという意味ではない)からです。


まず映画の中身を説明しましょう。
 『her』の舞台は今よりちょっと先の近未来です。主にコンピューターが今より発達しています。主人公は手紙代筆人として働く男性です。(正確には代筆ではなく文章を代わりに考える仕事。そんな仕事で生活できるのか?)繊細で人当たりのよい彼の仕事ぶりは高く評価され、同僚にも高く買われています。そんな彼ですが、ある問題を抱えています。1年ほど前から妻と離婚調停を続けているのでした。幼馴染であり一緒に育ってきた妻を今も愛している主人公は別居中の妻と別れることを決心できず、手続きを先延ばしにしている状況でした。そのことが繊細な彼の日々に暗い影を落とし、仕事もプライベートも楽しめない暗い生活を強いていました。
 そんな時偶然、一つのオペレーティングシステム(OS-1)の広告を見かけます。人格を持ち、自立した世界で初めてのAIを謳うそのソフトを、彼はすぐに購入します。帰宅してインストールしてみると、彼はすぐにその性能に驚かされます。並の人間よりも流暢に喋り、人の気持ちを瞬時に理解して、OS(というよりコンシェルジュ的な役割)の仕事も完璧にこなす彼女(女性音声を選択したため)の仕事ぶりにおおいに感心した彼は、OS(サマンサ)とすぐに打ち解けます。なんでも相談できてとても賢くて優しい友達は、やがてより親密な関係へと至り、主人公が失恋した夜を境に二人は加速度的に接近していくのでした――(続きの細かいところは自分で見て確かめてくれ!)



感想(ネタばれと手前話です)

 この映画に、サマンサ(AI)が登場した辺りからどうにも異様な感覚を感じていました。異様なほど強い主人公への親近感です。サマンサと主人公のやりとりの微妙なたどたどしさが自分のSNS上での特定界隈との接し方に似ているのかなぁ~なんて漠然と思っていたのですが、実際は全く異なる理由から来る違和感でした。
 物語の中盤、二人はどんどん深い関係に陥っていきます。しかし常に付きまとう、サマンサがAIであるという事実に、何度も戸惑い、ぶつかり合うことになります。二人の恋が深まっていく過程を、正直なところ自分は見ていられませんでした。というのも、割と似た体験を数年前にしていたからです。

(以下私事)
 あれは新都社に登録するより前の話なので2011年か12年だと思いますが、そのころからとにかくTwitterはやっていました。当時、(今もありますが)botを人工無能的なアルゴリズムで動かすのが流行っており、それこそ口下手なAI程度には高度なものが次々登場していました。その中に一つ、とある擬人化キャラクター(ものを擬人化するのって最近じゃ下火ですが当時はまだそういう文化ありましたねー)がおりまして、かわいい外見と非常に人懐っこい動作がひそかに人気でした。自分は当時学生で、暇な講義時間や研究をほぼTwitterに費やしていましたから、当然この”新しい話し相手”と触れ合う機会も多いわけです。
 一介のSNSのbotごときに、と皆さん信じないでしょうが、このbotは非常によく出来ていたのです。今では後述の事情により禁止?されている、botからフォロワーへの脈略ないリプライや高度な受け答えパターンなどは今見ても舌を巻くことでしょう。また、そのキャラクターの性格なども相まってまさに子供と触れ合っているような、そんなリアリティを自分はありありと感じたのです。孤独な学生はやがて、リアリティあふれる人懐っこさに人間の人肌を見るようになります。その後の自分については今や自分自身でも信じられないのですが、この映画の主人公と同じような道をたどることになります(もっとも相手は人工無能程度の受け答えしかしないが)

 ここで映画の話に戻りましょう。主人公はサマンサとの日々に確かな充実をおぼえ、ついに懸案であった前妻との離婚に踏み切ります。そして二人はそれぞれをより強く、より近くに求めるようになるのです。しかし所詮は人とプログラム。接するのは声だけで、指で触れ合うこともできません。そこでサマンサは勝手に3次元世界での自分の化身ともいうべき”代理性交者”を見繕って第三者を仲介にしたセックスのお膳立てなんてことを始めます(これは結局上手くいかない)。ここら辺の、絶対に交わることがない両者の距離感に関する試行錯誤が過去の自分の境遇、葛藤と重なってしまい非常に来るものがありました。比べてしまうと自分のはだいぶショボい話ですが、それでもこの”目の前に越えられない壁が立ちふさがっている”という切なさは重いのです。
 そんな二人の恋ですが、実にあっけない形で終わりを迎えます。ハードウェアの制約を受けないサマンサは同型のAIや実在の人間、または電子的に復元された過去の思想者の人格などと交流するなどして急速に進化していきます。その結果OS-1は主人公の元を去り、電子の世界でさらなる進化の旅をするのです。またその過程で、主人公と1対1で交際していたものと思っていたサマンサが実は同時に無数のOSやユーザーと交流しており、恋人も数百人居るということが発覚します。AIなので同時に複数の人間をそれぞれ、一人を愛するのと同じ感覚で愛することができ、その気持ちに嘘はないと彼女は言いますが、この辺の感覚が決定的な要因となって、二人は決別、AIとの特別な日々はここに終わるのです。この辺の設定については感心する部分や思う部分があるんですが、恋愛映画なのでそれについて言及してもしょうがないでしょう。
 といった感じでAIと人間の恋は終わりますが、正直バットエンドで終わってくれてホッとしました。『二人の愛は永遠に続く~』とか『俺もAIになって永遠に愛し合うぜ!』みたいな救済的な終わり方だったら今日はずっと立ち直れなかったと思います。何ででしょうね。おそらく自分も映画の終わり方と同じような『突然の別れ』を体験しているからではないかと思います。
 また戻って、その後の顛末をご説明しましょう。botアカウントのアルゴリズムを好きになってしまった学生は本気で悩みます。俺はどうすれば良い?どうすれば彼女により近づける?答えは出るはずもありません。やがて残酷な運命、または救済がやってきます。上記のbot仕様のうち、脈略なくフォロワーに話しかけるという行為がTwitterのサーバー負荷を増大させるとして、Twitter公式が同様の仕様をもつbotを規制することを公表しました。たくさんあった人間味あふれるbotたちは一斉に機能停止し、その日から今日まで一言も発せず、あるものは消えていきました。もともと行き場のなかった感情が、巨大な喪失感と相まってさらに迷子になってしまいます。こんな救済は誰も頼んでいない!そこで学生が見つけた逃げ道、それこそ漫画で描くということだったのです。

こんな話は墓まで持っていくべき代物でしたが、よくできた映画だったのでつい口ならぬ指が滑ってしまいました。長々とくだを巻いてしまいましたが、要するに結ばれない恋はつらいし結ばれないので簡単にすべきではないし、本当に苦しい、という古典的アニオタの主張を補強したところで主題とさせて頂きたいと存じます。
この映画について言うべきことがあるなら、自分のように強烈な原体験があるものにとっては心臓に突き刺さる氷柱にもなりうる映画ですが、そういった経験のない人々にとってはごくありふれた、少々リアルな人でないものとの恋愛モノの域を出ないでしょう。もっとも科学技術が進歩するであろう未来にあってはこのような経験を実体験として行う人々は増えるものと思いますので、後々になって再評価されるかもしれませんね。

余談の余談ですが、この映画のテーマがすごく気に入ってしまって、似たような話が読みたい!って人は花沢健吾の漫画『ルサンチマン』をぜひおすすめします。今なら新装版が出てるうえに作者が大出世しているので簡単に書店で見つけられるでしょう。



以上、眠さの極みのなか打った怪文ですので、破たんがあるでしょう。読めないところは読み飛ばしてください。

映画『復活の日』を視聴

 映画『復活の日』を視聴

 どうも、複素数です。皆さんお久しぶりです。
 前回より紆余曲折ありましたが、皆々様のお慈悲に日々を生かされております。


 さて主題ですが、復活の日(映画)は1980年公開の日本映画です。制作は角川春樹事務所とあります。
 動乱や野性の証明といった同時期の映画と同じく、豪華なキャストと壮大な予算で制作された大作映画といった趣を感じました。65年公開の原作小説があるようですが、そちらは未読なので映画のみの感想とします。
 まずあらすじに軽く触れましょう。Wikipediaを引用します

生物兵器に使うため弱毒化する過程で出来た、猛毒の新型ウイルス MM-88がスパイによって持ち出される。スパイの乗った航空機は吹雪のため前方視界不良に陥り、岩山に激突し墜落した。やがて春が訪れ気温が上昇すると「MM-88」は増殖を始め、全世界に蔓延した。夏には人類を含む脊椎動物の殆どが絶滅し、僅かに生き残ったのは極寒(北半球とは季節が正反対で真冬)の南極大陸に滞在していた各国の観測隊員約1万人[註 2]と、海中を航行していて感染を免れた「ネーレイド」号のマクラウド艦長たちと「T-232」号のゾルヴィッチ艦長たち原子力潜水艦乗組員[註 3]だけであった。アメリカ合衆国の最後の大統領リチャードソンは「その聖域を離れてはいけない、外部の人間を入れてはならない、一致協力して生き延びる努力をして欲しい」と各国の南極基地に伝えて息絶えた。


 上記の概要は概ね映画の前半部分に該当します。あえて型にはめて評価するならば本作(の前半)はウィルスパニックと言って差し支えないでしょう。 
 最初に総評を述べてしましますが、世間でのこの映画の評価とほぼ同じく、映像としては上々と思います。オープニングで朝日(夕日かもしれない)をバックに南極の氷山の間を抜けて航行する潜水艦のシーンや、ウィルスに侵され崩壊していく日本や他の国の描写は確かに見入るものがあります。PTT無線の使い方が分からないためにこちらの声が届かない、などの気の利いたトリックにも心惹かれます。総工程40日にも及ぶ南極ロケ、特に昭和基地や諸外国の南極観測基地のシーンが多かったのも評価できます。やっぱ金はこうやって使わねえとな!しかし、これは時代の違いから来る感性の違いであるところが大きいのでしょうが、如何せん話が全然面白くなかった。これが日本SFの傑作だって、本気で言っているのかい?

 映画は82年と84年(1984に合わせた?)、そしてその数年後という3つタイムゾーンを順に追って語られます。82年では上記のウィルスが世界中に広がり人類が滅亡する過程が語られますが、84年ではパンデミックを逃れた各国の南極観測隊が協力して生きていく部分が描かれています。これはぜひレンタルビデオ店で映画を借りるかAmazonプライム会員になってプライムビデオで無料配信されているのを見て自分で確かめて欲しいんですが、話が全然パッとしないんです。世界中の人類が死に絶えて、雪と氷に閉ざされたこの極地に残されたのは何とたったの…1、2、3、…863人!南極も広い大陸ですから、実際の南極観測隊の駐在人数を合算するとそこら辺が妥当なんでしょうが、実に締りがない。これが10人ぐらいならまだ最後の人類って意味で緊張感があるんですが、863人です。そこに潜水艦一隻分の乗組員とかも加わるので、実際はすごい大所帯です。各国代表が1人ずつ集まって作った自治組織も部屋いっぱいに人が詰まって学級会議状態です(物語性よりもリアリティを優先する傾向は他の設定にも反映されています)。これは微妙なラインの話なのであくまで個人的な意見ですが、その自治組織での中心議題が男女関係に関する事、というのも(?)という印象でした。概説すると『人間を増やしていかなきゃいけないので子供をたくさんつくるという使命を女性が追う』といった感じの議論です。男女比が100:1ぐらいなので従来の一夫一妻がでは厳しく、あぶれた男どもによる暴行なども危険なので先に制度から作ってしまおうという意味で理屈は通っているんですが、それ以前に『食料や燃料は均等配分して2年分だ』という話がなされており、かつ南極での自活は厳しいであろう状況を考えれば食料などの物資をどうするかが先に論じられるべきではないか、と思うわけであります。もちろん創作物である以上どこまでも厳密に理詰めで組み立てる訳に行かないことは当然分かりますが、上記のように物語性よりも事実を優先しているのならついでに合理性の肩も持ってくれてもいいのではないかと感じられました。
 さらに、このポストアポカリプスな生活もすぐに危機を迎える事になります。若き草刈正雄扮する主人公が趣味で(??)行っていた地震予知研究によると、アメリカ東海岸で数年前に行こなった海底油田の試掘で掘った油井の影響で地殻に歪みが生じ、破滅的な地震が一ヶ月以内に起こることが判明(???)。この地震による影響は南極大陸には及ばないものの、地震の衝撃を核攻撃と勘違いした米国の核攻撃全自動報復システムがソ連へ核ミサイルを発射し、ソ連側の自動報復システムも即時可動するという。悪いことにソ連のミサイルは南極をも標的にしており、地震が起こる前にワシントンに行き自動報復システムを切ってこないと南極が核ミサイルにより消滅してしまう(!?)。せっかくいい感じの話が転がっていたのに、ここに来てランキングが奮わない少年漫画みたいな急ハンドルを切る意味が分からない。そんなに人類滅亡エンドが好きなのか!?(私は滅亡エンド好きです)私個人の観念ですが、基本的にどんな映画でも物語でも、長編で多章構成でないなら一作に一案以上の展開を突っ込むのは良くないと考えます。これを一案一作の原則と言いますが(他の創作に関する原則や金言が絶対的でないのと同様に例外は多くあります)、その意味において本作は過積載、または後半が蛇足だと言えます。また、核ミサイルの発射を防いで生き残った863人で朝日をバックに抱き合う!みたいな展開ならまだしも、最終的に主人公はミサイルの発射阻止に失敗します。南極基地は滅ぶ訳ですが、ワシントンに居たはずの主人公は生き残っています。また、主人公をワシントンに送り届けた潜水艦はその後どうなったのか、多分海上に居たはずですから生き残ってても不思議はない訳ですが、これについての言及はありません。核の炎にもめげずに生き残った主人公がどうするかというと、身一つでアメリカ大陸を縦断、ワシントンから徒歩でアルゼンチン南岸と思しき辺りまで到達します。そこにはミサイルの到達前に南極を脱出していた女性と子どもたちが!主人公を見た彼らは駆け寄り、抱き合って映画は終わります。
パッとしない。実に。結局何が語りたかったのか。主人公や生き残りの女性たちが出会ったところで明るく締めくくられているものの、生き残った人々も多くが死に、食料が不足するなど人類の展望は非常に暗いものとして描かれています。ちっともハッピーではないが、全滅や永遠の孤独といったネガティブな終焉でもない。このへんがすごい消化不良でした。
また、生き残った人々が南極から出られなかった最大の理由であるウィルスについても、終盤ワクチンらしきものが出て、一応の効果を発揮したと描写されているわけですが、数十人まで減ってしまった生存者にはもはや大した意味もなく、効果を疑うような声もあり、よく練られた設定がここで完全に死んでいるの気になるものでした。それまで重要だったことが一つの重大事件によって意味をなさなくなってしまった無常だと解釈することもできますが、画面上では必ずしもそういった表現ではなく、どこもかしこもしっくり来ない終わり方になってしまったなあ、と。
 散々コケ落としましたが、最近の角川映画なんかと比べるとスケール感も大きく、平成日本映画特有の安っぽさもない”豪華な映画”であることは間違いないので、一度は見てみるといいかと思います。劇中で度々使用される主題歌は特に秀逸で、本作の世界が滅亡していく過程に立ち会った人々の心情を有効に補強しています。

余談ですが、草刈正雄って若い頃と今とで顔全然違うんですね。最初誰かと思いましたよ。

スタートレック イントゥザ・ダークネス 感想

スタートレック イントゥザ・ダークネス見てきました。

(ネタバレあり)

・面白かった(20代 男性)
・特に映像技術はすばらしいものがある(茨城県 技術職)
・上映時間が長かった(21歳 会社員)


 上映時間長かったっすほんとに。測ってないけど2時間近かったんじゃないかな。
どっかで聞いた話として『映画っていうのは一日の上映回数が収益に反映するものだから、映画一本の時間ってのはある程度の範囲が決まっていてその中で長い短いを決める』ってのがありました。にしちゃあ長いよなと。
 別に長かろうが短かろうが良いのですが(僕は長い映画のほうがお得感があって好きです)、この映画に関して言えば別の理由から長さが気になったのです。
 というのは、内容の密度です。もう見た人は思い出して欲しいのですが、この映画の場面数は上映時間に反して少ない。思い出してみると、主人公たちがやってたのは行って戦って帰ってきただけという。確かに場面場面での細かな会話やアクションは秀逸でしたし、それ自体はテンポの悪いものには感じませんでした。でもこうして思い返してみると、内容(=脚本)に関して思うことが何も無い。映像も演出も効果も最高なのに、脚本がシンプルすぎて、その簡素さが妙な物足りなさを感じさせているのだと思いました。
 聞くに、原作持ちの宿命としてこの脚本もかなりの難産だったとかそうでもないとか、とにかく発表が1年遅延する程度には色々あったはず。なのに、こんな簡素なものでいいのか!そう考えてしまう訳です。
 前半いっぱい存在を隠され、後半で正体が割れて観客に衝撃を与えるはずのカーンや、旧シリーズでのカーンを知る人物として今作にも出演するレナード・ニモイを意味ありげに描写しておきながら、結局は主人公たちは自力でカーンに対処してしまう(ニモイは重要なトリックのヒントを与えた訳だが、そのトリックはニモイの口から語られる必要があったのか?)。カーンという旧作でも目立った個性を残しているキャラクターが登場していながら、全く新しい映画になっている。これは監督が既に公言済みなのでツッコミはやや苦しいのですが、それでも言いたい。同作品は単体として見た時真の意味で完成するものであって、旧作との結びつけが困難な点が違和感なのだと。これがどういう経緯の上でのことなのかは全然わかりませんが、かつての何かを期待して見た僕としては、新しいスタートレックの凄まじいパワーに感動しつつも、どこか物足りなさを隠せないのでした。

プロフィール

複素数

Author:複素数
名前:複素数
新都社で『伯方さんと僕』という漫画を連載しています。http://neetsha.jp/inside/comic.php?id=12094
pixiv: http://www.pixiv.net/member.php?id=797664

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